私信の長文ほど名言が出やすい。これはわたしの生活上の実感。
そりゃそうだ。だってあなたのことをありありと思い浮かべながら書いているのだもの。思い浮かべているのと居ないのとではぜんぜんソウルの乗り方が違うのだ。
とはいえ私信であっても「ログが残る」という観点から婉曲化し窮屈な表現でリスクヘッジをすることはある。そういう配慮が長期的に見た社会適応能力の一部になりつつある現在、心をあずけられる、手ごたえのある文通相手を見つけるのはたいそうむずかしい。
この「レター教室」は格闘技のような文通で、反則スレスレどころか完全に相手の自尊心を滅ぼしにいくような文面もあってドキドキする。書きながら凶暴性が溢れ出てくるのを抑えられなくなる感覚はわかるけれど、ねえ投函する? するのそれ! マウンティングなんて生やさしいものではないやりとりがリアルの人間関係と平行して進んでいく。ただマウントをとっただけに見せかけて小さな関節をありえない角度で既にちゃっかりキメちゃっているような陰湿さ。小指くらいはいいだろうと思っていそうなちゃっかり感。こわい。そのあまりのナマナマしさと下世話さでどんどん読まされてしまう。どこか、2ちゃんねる(いま5ちゃんねる)や発言小町のようでもある。これは属性の戦争?
告白・申告という形式特有の「ここだけの話っぽさ」には書き手の悪魔性を導き出す効果があるのだろうか。どの手紙も、サービス精神が悪魔性として出てきている。会わない相手に差し出す手土産として、毒の前に薬を選ぶ人のほうがよっぽど人をバカにしているだろうと考える人が少なくないのはまあわかるけれど、身を削るようなサービス精神だ。外国人の前ではたどたどしい英語で。うんうん、これは基本中の基本。外国人力士は、ちゃんとこれをやっている。これをやらなきゃ応援してもらえないし、居場所も得られない。日本はおそろしい国だけど、インドへ行けばわたしも「いかにこの国で生れた思想が素晴らしいか」をインド人の前でとうとうと語りスワミ・ヴィヴェーカーナンダの本の表紙をちらと見せてからでないと寝台車では安心して眠りにつけない。リスペクト・即・防犯対策。どこの国でもコミュニケーションの基本は同じ。
この文通物語に出てくる「新婚を告げる手紙」のなかにある「聖家族」という詩があまりにも美しくて、手帳に書き写した。こんなタゴールのような詩を日本人が書いたものを読むのははじめて。こういうのをこの展開の中にさっといれてしまうところが、どうにもすごい。どうにもとにかくここがすごい。
人間のグロテスクな部分を見せられつつ、ものすごく現実的に恋のトレーニングをしたくなる不思議な本でした。