わたしには「お気に入りの劣等感」があります。まだ少し残っているかな。これは他人が代わりにあっさり捨ててくれることによって気がつくので、捨ててくれる人が現れないとそのままになりがち。現れても「あら、見た目がボロいから捨てられちゃったか」なんて解釈しちゃって、気づけないときは気づけない。
そしてゴミ箱から「まだ使える」と戻したりしてその愛着に今さらながら気づくのだけど、あっさり捨てて帰ってくれる人がまた現れる。何度かそういう人に出会うことで、やっと気がつく。
わたしは「料理がうまくない」という劣等感に長年愛着を持っていたのだけど、ここ数年のうちに友人が捨ててくれました。この過程で、自分の特性をひとつ知りました。わたしはガスコンロを中火以上で二つ同時に使うことが苦手なのであり、そしてそれは片方が長く弱火でよいのであれば苦手の範囲には入らない。<火×時間>が複数になるとキャパオーバーするのだということがわかりました。
よくよく考えたらこれまでも「おいしい」と言ってくれた人はいたのでした。なのに「うまくなったよね」とまるで俺が育てたみたいな口調で言った人に対する、なんともシラけた気分になったときの記憶を大切に保管していたのでした。幻想がこわれてゆく過程のなかに自己を見いだした、あの自我が立ち上がる瞬間をたいそう気に入っていたのかもしれません。こういうとき、わたしの脳内に住むいとうあさこ軍団が「(いま怒りの感情が沸いたわたし、)生きてる!生きてるよねー! そうだそうだー。生きてる生きてるー(ガヤガヤガヤガヤ)」とやりだすのでわかるのです。あの瞬間、なんか楽しかったんだな。あさこがいっぱい。
そんなわたしは友人から焼きびたしやサラダを美味しいと言ってもらえたことで、火のコントロールにまだ慣れていなかったことに気づくことができました。乾燥したものを戻す過程<水×時間>が好きであることにも気がつきました。いまは平日に毎朝お弁当を詰めるのが楽しいです。ほぼ毎日同じ内容だけど、楽しい。
こういうことは、ほかにもまだまだある気がします。自分の中の鉱脈を掘り当てたときの喜びは、なんともいえんものがあるね。うふふ。
乾燥ひよこ豆を戻しているとき、一日の間にちらっと何度もみるのが好きです。豆は何度見ても「いちいち見てんじゃねえ!」とか言わないし。言ってたらこわい。(豆を被ったあさこ軍団を妄想中)