わたしは高校時代までの友人知人との交流が20代なかば以降ありません。あまり気にしてこなかったのですが、生まれ育った土地と縁が強く結びついていません。
お金にまつわる破壊の力がはたらいた親族とは広くつながりがなく、30代の後半は親族の名を出す人から突然電話かかかってくるとお金の話や契約書へのサイン・印鑑証明の送付催促でげんなりしていました。なので40歳近くになって奨学金の返済を終え、勤めてても大企業でなくベンチャーという状態になったときには、妙な解放感がありました。そんなわたしなので、はじめて夏目漱石の「道草」を読んだときはその吸引力に驚きました。
社会的信用面で利用価値のない存在になれば、親族の縁は薄まっていくものだろうか。当時そういうことを確認したくなる気持ちがあったわたしにとって、その感情を書くのが格別にうまい夏目漱石は大好きな作家です。こういうことって実は多くの人にあることなのではないかな。だから長年読まれるのではないかな。ここ数年夏目漱石の読書会を続けてきて、そんなふうに思ったことが何度もあります。
そんなわたしにも、ここ数年はありがたいことに「古くからの友人」と言える人が何人か交流してくれています。インターネットの時代でなければ再会できなかった。いずれもお子さんが大きくなり、会えるようになりました。彼女たちはわたしにはない感覚のことを自然な文脈で口にします。一緒にいるだけで時間の感覚を超えて、人生の世界観が変わります。わたしにとって、友人が「おかあさん」をしているというのはすごく不思議というか、それはフレンドリーとリスペクトのゴールド・ブレンド。ここからの景色はとても味わい深いのだけど、こういう関係性も「生産性のあった人⇔なかった人」に二分したい人がいる世間では "味わい深い" なんて言ったら悠長すぎると非難されてしまいます。この尊敬の気持ちの詳細はわたしだけが知っている景色として、心の中のアルバムに収めています。この気持ちはいまの時代のいまの味だから、いまわたしが味わうのです。
世の中にはたくさんの断絶や主張があるときにはあるけれど、ないときにはない。でもこの「ない」を強化した瞬間に、「ある」になってしまう。「わたしたちは」になってしまうから。
ヨガのクラスでもいろいろな人と知り合うけれど、そこで会うひとり暮らしの人もふたり暮らしの人もそれ以上の人数での暮らしの人も、個人の心の共鳴に移行していく人たちは『「境界がない」の気持ちを強くようとした瞬間に、「境界がある」になってしまう』というジレンマから目を背けず、どんな理論武装をしても絶対にその法則から逃げられないさみしさを責任をもって抱えているように見えます。何年も続けていたらそういうことが少しずつ見えてきて、とてもありがたい出会いと感じています。ひとりで行動する時間に、ひとりで考えてきた人たち。頭の中で群れてない。
おとなになってからの出会いも再会も、すてきなものです。