うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

30代、40代女性あれこれ

今年の夏は自分よりもヤングな女性と食事をする機会がたくさんありました。
年下の女性と話しながら「あるある、あったよ。わたしも」と言うと、たまに驚いたような顔で「うちこさんでも、そういうことは、あったんですね…」なんていわれます。
「あったよ〜。ふつうに」と答えるのだけど、この「ふつうに」の感覚は、あまりにふつう過ぎて語られないことかもしれません。


わたしはあまり器用ではないという意味で、まじめなところがあります。重要ではない場面で正しさを問うてしまうような、そういうところがあります。
わたしが経験してきたいくつかの仕事場では、風紀委員の女子の延長のような正しさの主張が許されるのは30代前半くらいまでで、年上の女性の少ない環境ほど「お局フラグ」を外部からサクッと立てられる感じでした。部署ごとに空気がぜんぜん違うので、別の部署は過ごしやすそうだなぁなんて思ったこともあるのですが、きっと行ったら行ったで、出るときには値踏みされることに対して打たれ弱くなった自分になってしまうのだろうな…とか、そんなことをぐるぐる考えていました。まったく無駄な妄想です。

そういうグラデーションを30代後半で感じたので、少しずつ身辺を多面化することにしました。
仕事の発生ルートを仕事の性質別に分け、収入は不安定でも精神は安定しやすいようにしました。いったん、そうしてみることにしました。先のことはわかりません。
今は大げさなくらい専門家扱いされる仕事も、鼻であしらわれる扱いをされる仕事も、時間と意識の割り振りだけでやっています。生活のための仕事とは切り分けて多くの時間を割いて取り組んでいるライフワークもあるので、自分の時間をどう使うか、考えながらやりくりしています。


仕事でも家庭でも、状況によって他人からの評価が変わったり、他人の決める優先順位によって変化を求められることがあって、それが望む変化であれば高揚し、望まない変化であればストレスと感じる。こんなこといつまで続くんだと思ったりもするけれど、たぶん死ぬまで続く。あんなに頭のいいインド人たちが輪廻思想なんてものを生み出したのは、もしかしたらこういうこと? なんて、わたしはたまに思ったりします。
いまは、望む変化の時には浮かれるなよと自制し、望まない変化のときには自己犠牲の精神をひっぱりだす。そしてそれは他人が決めたことじゃない。選んだのは自分。そういう軸のようなものを失わないために、ヨガの教えが支えになっていると感じています。



そんなこんなで年々益々、他人とただ単純に肉袋をひっくり返したりねじったりする練習が、すごくしあわせな時間です。性別、年齢、経歴で値踏みされない時間。
わたし、何歳だったっけ? あらやだ! 十五で姐やが嫁に行ってた赤とんぼの時代にしたら…、おばあちゃん?! なのにわたし、なんで何回も腕立てしてるの! これはむしろ、マッチョなおじさんじゃないの?! 亀仙人化するのか?!
なんちてね。もう自分が何者なのか、さっぱりわかりません。でもそれが、すごくうれしい。心のなかでいとうあさこさんが「生きてる!」って叫ぶ。思わずニヤニヤしてしまう。


自分に気持ちの面で限界を作ってしまうのって、なんなのだろう…と思うこともあるけれど、それ以前に自分を見積もる作業を他人の価値観(仮想他人目線)でやってしまっているんですよね。
「うちこさんでも、そういうこと、あったんですね…」と驚いたように話すヤングの話を聞いているときのわたしは、「そりゃ、わかるわ!」って感じなのだけど、あんまり勢いづくとそれはそれで新旧風紀委員女子会みたいな空気になるので、なんとなくテーブル頬づえをついたりなんかして、気分は桃井かおりな仕草で「わかるぅ〜」なんていいながらうなずいています。
わたしのなかで、「いとうあさこ」と「桃井かおり」が同居しています。