何年も前の話ですが、その人が暇なのかうつなのかも知らないままに、漠然とひとりの女性から「暇だから、うつになるのでしょうか」と問いかけられたことがあります。以前はわたしと似たような業界で仕事をしていて、いまは結婚をしてその仕事はしていないとのことでした。
わたしはそういう質問をされても、「うつ」というのは "たぶん社会通用的に、いま、こう" みたいな会話のトーンが個人によってちがうので、「わからない」と答えることがほとんどです。あなたが摂取しているうつの情報がわからないと、わからない。というのがほんとうのところ。
「暇」という語が指しているものも、実のところなんなのかわかりません。
- 家にいる時間が長い
- 趣味が見つからない
- 趣味に飽きた
- やりたい仕事が見つからない
- 生活のためにお金を稼ぐ必要がない
- 世話をする対象がない
- 話し相手がいない
- なにかから離れて(失って)時間ができた
ほかにも思いつくのだけど、時間があるということでいえば、わたしもけっこう暇です。移動にすごく時間をかけているから暇じゃない感じになっているだけで、乗り物に乗って座っていられる時間は、暇といえばめちゃくちゃ暇です。
いまの時代は60歳くらいまでは多くの人が忙しいという設定になっていて、暇な人が存在を明示しにくいムードがあるけれど、でも、ただそれだけのことといえば、それだけ。昔はそのほうが、名誉。
先日読んだ、1919年のイギリスの小説「月と六ペンス」に出てくるご夫人は、働くことを不名誉と感じている人でした。
ストリングランド夫人は、自分が生活費を稼ぐために働くというような不名誉なことをしたことがあるなどとは、すっかり忘れてしまっていることは明らかだった。彼女は、他人の金によって食べてゆくことだけが、ほんとうに上品なのだという、りっぱな女性のあやまちのない本能を持っていた。
(58)
おもしろいのは、これを「りっぱな女性のあやまちのない本能」と書いているところ。
わたしは、口にしなくても心根のところで「働かなければいけない女じゃないわたし。えっへん」という価値観を持っている人は実は多いと思っています。なので、暇でも生活できるならひとりで誇ればいいのに。と思います。自分で、自分自身に対して誇る。その誇りの承認を外部に求めるから、悩みになってしまう。
暇を恥じない
って、べつに、普通のことですよね。
わたしは暇を恥じている暇な人から話しかけられるとき、つい忙しいふりをして捕まらないようにしたくなってしまいます。
暇を恥じていない暇な人は、こちらもごはんに誘いやすい。これ、いつもなんでかなーと思っていたのですが、約束が成立するんですよね。
暇を恥じている人のほうが予定をひっくり返すことが多いから、約束をすること自体が徒労に感じてしまって、関わる回数を減らしたくなってしまう。
暇を恥じない
って、べつに、普通のことですよね。
過去とのギャップでそう感じてしまう感覚は、わたしにもすごくよくわかります。でもそれは、恥ではない。ギャップ。ただいま変化に対応中、という状態かと思います。それが定常になっていくのには、時間がかかる。
わたしが思うのは「この人には、与えても与えても底がない。まるでザルだ」と周囲に思われてしまうことと「暇であること」がもしリンクしているようなら、それは他者とのかかわりかたとして得策ではないということ。「この人はほどよく満たされていて、いっしょにいると居心地がよい」ということが「暇であること」とリンクしているなら、それはとてもすてきなこと。
底なしのザルの底を埋めてくれるのは、まずは「恥じないこと」じゃないかな。いろいろな人を見ながら、そんなふうに感じています。