うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

相手のリアクションに期待するという、生産性のないことをしなくなること

先日、わたしよりもヤングなヨガ仲間が「仕事の面でヨガのよい影響が出ている気がする」という話をしていて、はげしくうなずきました。
職場で隣の席の上司に話しかけたときに、すぐにレスポンスがなくても気にならなくなったそうです。
お話を聞きながら、これすごくわかるなぁと思ったのですが、必要なことなら確実に主体的に返事を取りに行くのに、それをせずになんかイラついているってことでもあるんですよね。


わたしはたまに仕事で「この人はヨガの練習などしなくていい人なんだな。デキる人って、こうなのか」と思う人に出会います。(noteのほうに書きました
そんなことが今でもあるので、冒頭のお話をしてくれた人に、



 「わかる。わたしは周囲が優秀な人ばかりで、
 あーあ…、と思っていたときにヨガをはじめたから
  いまも続いているのかもしれない」



という話をしたら、またしても「うちこさんにも、そんなことがあったんですね」と言われました。
いまも根本的には変わっていないと思うのですが、わたしは周囲の人が仕事や人生をうまくやっているように見えたり、成長のめどの見えない自分に嫌気がさしていたときにヨガをはじめました。そんなときでも、ヨガは少しずつできるようになったから、「まだ行けるかな、わし!」と思えた。


これは何年も前に本で読んで、いまもたまに思い出すことなのですが、
周囲に不満を抱き続けながら「でもわたしには、ヨガがあるし」というモードで行う取り組みは、きっかけがあてこすりだから、楽しく長くは続けられないだろうな。と。ジャック・ウェルチさんが有名な本にヨガをする人の事例を書いていて、ものすごくすごくドキッとしました。「この環境で成長の見えない自分をジャッジしていたのもまた、自分なのだ」ということに気づくきっかけをその本で得て、仕事がありがたいものに変わった。



先日、冒頭の人には「今の仕事に就いて、何年? 辞めようとかいう感じではない? 飽きてない?」なんてちょっと立ち入ったことをきいてしまったのですが



 三年くらいです。飽きてないです。そういうのはないです。



とのこと。そうそう、これこれ、この感じ。
転職にしてもなんにしても、新しい環境に行けば、まぁはじめは歓迎されるんですよね。実のところ半年たたなければ戦力かどうか、相手も判断しにくいのではないかな。なにが上手にできる人なのかが試用期間の3ヶ月でわかるかといったら、ちょっと足りない気もする。
なので数年働いて、「飽きてない」という感覚はすごくいいなと思います。
「いま、ここ」に感謝できるようになるというのは言葉にするとすごくクサいのだけど、でもこういうことだと思うのです。


不機嫌さや過剰なへりくだりという手段をとらなくなることも、成長という点では同様。
わたしはかつての自分を思い返して、アピールを隠せなかったときにリアクションをせずにスルーしてくれた先輩たちに「あのとき無視してくれて、ありがとう」と思うことがあります。(フラッシュバックしてあたまを抱える感じです)


ヨガを続けることで思考が変わる、仕事の面での効用でいうと、こんなこともあります。



 他人に対する「気が利く・効かない」という視点でのジャッジがなくなった



「そこに気がつく回路ができていないのだから、期待したり察しろと思うこと自体が不毛」と考えるようになりました。バランスポーズの習得と同じで、そのゴールのための回路がつながるかどうかや、契機も時間もインプットへの反応もすべて、個体差でしかない。神の設定したプログラム。
こんなふうに排他の意識がなくなると同時に、自分と同じように回路がつながっていると思う人とは友だちになりたいという、そういう気持ちを残せるようになりました。そういう気持ちを強く持ってよいのだという根拠のようなものが湧いてきて、以前よりも仕事を通じて仲良くなる人が格段に増えています。
「これは好き嫌いではない、損得ではない共感なのだ」と、はっきり実感できる。
これはわたしにとって、かなりポジティブな変化でした。"平等" を履き違えるような、不器用なまじめさで苦労しているところがあったから。


今日書いたような変化は外面からは確認しにくいけれど、こういうのは全般「恨まない技術を手に入れた」みたいなところがあるように思います。いまはまだ外部から見えなくても、きっと年月を経たら、「人相」で差が出てくるはず。
自分にそう魔法をかけながら、わたしは練習をしています。一周回った美魔女を目指してる。