うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

私憤と義憤のあいだでケシカラニズムを制御する

日々暮らしていると、会話の中からさまざまな私憤と義憤をブレンドした言葉が耳に入ってきます。
わたしは数年前にこういう思いについて考えたことがあって、そのときに「避けたい思考の言葉リスト」というのをつくりました。いま読んでもまったく思いが変わらないので、ここで紹介します。
普段なにげなく使っているフレーズを見て「あああ”あ”あ”」と自責してしまう人もいるかもしれませんが、わたしは突き放すつもりで共有するのではなくて、わたし自身、自分の中にその種(タネ)があることに気づいて、芽が伸びないように摘んでいるものです。


わたしはヨガを続けることの効用の大きなものとして「私憤と義憤を混同しなくなる」というのがあると思っています。混同していることに気づいたときに、義憤として処理せず私憤の領域まで踏み込んで、自分の中にある「怒り」をなかったようにしないというのは実はすごく重要なのではないか。そんなふうに考えるようになりました。
いつ頃からかというと、「悪口の受け止めかた」というのを3年半前に書いていたので、その頃には明確に意識するようになっていました。

以下は町やスーパーで聞こえてきた会話、ニュースでインタビューに答えている人の使ったフレーズなどから拾いました。

  • 「○○のためにやったのに、○○になるんじゃ意味がない」

それぞれの○○に入るものの組み合わせによっては、テイクできないならギブしませんという図式が成り立ってしまう。気をつけたい。

  • 「いかがなものか」

他人がどこかの領域において迷惑な存在である状況を晒しつつ咎めたいという、場の構造まで巧妙に計算したフレーズでこわい。政治家の麻生さんみたいにキャラにハマっていると、また別の技巧(煽り芸)なのだけど。

  • 「どうよ」「けしからん」

すごく使いかたの難しい、素人は公で使う場面のなかなかないフレーズ。毒舌といわれるエンターテインメントの人だけが使いこなせる言葉のように思う。

  • 「ざまあみろ」

もう昭和のドラマの世界って感じがしますが、飲み屋などではいまだに耳にします。若いうちからこういう感情は減らしていかないと、人相に影響しそう。顔の筋肉に。

  • 「ほれみろ」「ほれみたことか」「いわんこっちゃない」「そうなると思っていた」

時制を超越できていたかのような、万能感全能感がすごい。「そんな気がしてた」という予言めいた言い回しもタイミングによっては同じ感じになるので、気をつけなきゃね。

  • 「自業自得」「因果応報」

インド思想の定番なのだけど、そもそも人間の口が言うのがヘンな気がしている。おしおきは神の仕事ってことになっていると思うので。

  • 「思い知らせてやる」

「だからそれは神の仕事では」シリーズ2。

  • 「お灸をすえてやらなければいけない」

「だからそれは神の仕事では」シリーズ3。これはを実社会で耳にすると、わたしの眼に浮かぶイメージは「せんねん灸」のイメージなのでほっこりしてしまうのだけど、言っている側のイメージは磔なのだろうから、言われたらめっちゃシュンとした感じにしなければならない。

  • 「○○じゃなくてよかった」

想定していたことが無くなった時点で必要なくなった感情なのに、わざわざもう一度捕まえに行こうとしている状態に執着を感じる。「○○でよかった」のほうに変換する余裕があるかないかで、自分の状態がわかる。

  • 「うまくいくわけがない」

もはや呪い。黒魔術。でも、「うまくいきそうにない」は準備に向かう思考ならば前向きなので、拾ったほうがいいときもあるのだけど。

  • 「あわせる顔がない」「顔向けできない」「どの面(ツラ)下げて」

「穴があったら入りたい」は全身なのでしっくりいくのだけど、顔だけにされるとやっぱり表面なのかと感じる。頭が優勢すぎる。

  • 「ひとこと言っておきたい(言ってやりたい)」

先の関係がないと想定しているから言えるのだと思う。「最後にひとこと言っておきたい」としたほうが、相手の時間を奪わないし限界のない妄想を植えつけることもなく済む。これを抜けないようでは、ネットニュースのコメント欄に書き込む人のことを批判できない。

  • 「かわいそう」

「隠れ激質の鈍質コーティング、慈悲添え」みたいな料理のしかたになっていないか、注意深く使う必要があるフレーズ。(綿矢りささんの「かわいそうだね?」は、その感じをさらに掘り下げてエンタメ化していて天才!)


昭和の歌の歌詞や時代劇を見ていると、こういうフレーズがすごく多くて驚きます。
読んでいるだけで純質がローになってくると思うのですが、なかには友人を励ましたいときについ使いたくなるものもあって、二重苦みたいになるフレーズも。でもその義憤も根っこは「わたしの大切な友人に、なにをしてくれるのだ!」という私憤。やっぱり「憤」には変わりがない…と、思いはブーメランのように返ってくる。



わたしは逆の「思考の言葉」も探していて、こっちを探すほうがたいへんなのですが、ひとつ「これはいいなぁ」と思うものがあります。



 「だまされたと思って」



理解されなかった場合(できなかった場合)の責任までまるごとバッチコーイな感じがたまりません。「おしつけさせろ〜」って感じがかわいらしい。


なんでもかんでも言語化する必要なんてないのだけど、ネガティブなフレーズを耳にしても身近な人を嫌いにならないために、自分の中で準備をしておけば長くつきあえます。愚痴を聞くときも、わたしのなかでちゃんと分解ができていれば「ただ言いたいだけなんだよね」と思える。
やさしくなるのは簡単ではないな…と思うのは、やさしくなるためには自分のめちゃくちゃ汚ないところをドブさらいのようにやっていくプロセスが欠かせないから。なので、「やさしい気持ちになれない」と悩んでいる人には、アメリカ横断ウルトラクイズで○と×のやつの泥のほうへダイブする瞬間のような、ああいうのと同じだと思って自分の中にあるフレーズをすくい上げてみる、そういう作業をこわがらないでほしいと思います。
こわいのはわかるよ、わかるんだけど、そこは



 ウルトラクイズだと思って」



やってみたらよいと思うの。
今日もまた、この喩えがわからないヤングをおいてきぼりにして、ごめんなさいね。



なんというか…
ポジティブ・コーティングがクセになってしまって、かえって人が離れていく。
そいういうことも、あると思うのです。



▼「ケシカラニズム」という言葉は、この本からいただいています