うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

アンダーグラウンド 村上春樹 著


1995年に起こった地下鉄サリン事件の被害者約60人へのインタビュー。
当時はあまりよくわかっていなかったあの事件。この本を読んでみたら、全く別のもののようにありありと見えてきたことがありました。
どんなところがありありか

  • 「液体」の毒を使ったテロであったこと
  • 「平日の通勤ラッシュの時間帯」に「東京のド真ん中」で「同時多発」したこと
  • ほとんどの被害者が、自分だけ体調がおかしいのだろう思って時間が経過したこと


わたしは当時まだ学生で地方に住んでおり、東京の地下鉄のことなど知らない生活をしていました。いまのわたしはサリンを撒かれた三つの地下鉄に何度も乗ったことがあり、だいたいほとんどの駅を知っています。東京都心の朝のラッシュ経験と土地勘をもったうえでこの事件を見直すと、いかに巧妙で恐ろしいものであったか、あらためて迫ってくるものがあります。


■わたしはこの本を読んで、「サリン」という液体そのもののことを、はじめて具体的にイメージした
この本を読むまで、「サリン」と言われても実際ピンときていませんでした。「毒」も、ピンときません。吸ったことがないから…。
でもいまは花粉症や手術のときに打った麻酔のことを思い出したりして、少し想像の材料になるような経験を得ています。
インタビューに応じた人それぞれが症状の経過を述べているのですが、ほとんどの人が「花粉症かな」「風邪かな」「二日酔いかな」とか、最初はそんなふうにまず自分を疑います。そうこうしているうちに症状が進んでいきます。この様子を読むだけでも、その恐ろしさがリアルに感じられます。

この本には何人かの専門家のインタビューも挟まれているのですが、こんなことが語られています。

これは推測ですが、サリンにアセトニトリルを混ぜて、揮発するのを少し遅めて、そのあいだに逃げられるようにしたのではないかということが考えられます。純粋なサリンだといったん袋から出すと、揮発が早いため、仕掛けた本人もそこでサリン中毒となり、死ぬ可能性もあるからです。
救命救急センター医師 斉藤徹さんのインタビュー部分より)

このほかにも、実行犯ですら、刺した器具の先端をしっかり洗わなかったために移動の車内でおかしくなるほどであったという話も出てきます。わたしにも想像が可能そうな「シンナーの延長」からどれだけ拡大していっても想像が届かないような猛毒。被害者の中には、何人か松本サリン事件を想起して「サリンじゃないか」と思っていた人もいたのですが、同時自分が社会人であったとしても、想像できたかな…。身体的なことって、想像が難しい。




■目的を持った移動をしているときは、イレギュラーを避けたい。という気持ちは、わたしもそうだ
ほんとうに「這ってでも」に近い状況でも会社・仕事に行こうとする人が多いことが、多くの人のインタビューを通して読むことでずっしりきます。まさかと思うかもしれないですが、でも実際自分もそんなふうにしそうな気がするのです。予定を切り崩すのがめんどう。イレギュラーを避けたい。
異常な光景を目にしていても、根っこにある習慣で多くの人があきらかにフラフラなのに、職場まで行っています。そこでニュースを知って、職場の人にすすめられて病院へ行ったりしています。視界が暗くなる症状に対して「今日は照明を落としているのかな」なんて思ったりしている。そうこうしているうちに、症状が進んでいきます。
こんなことを話す人もいます。

 改札を出るときに眼鏡をかけたサラリーマン風の男が「うわ、気持ち悪い。どうしてくれるんだ。どこか横になる場所ねえか!」って怒鳴っていたんですが、私は「何をオーバーなことを」というくらいに思っていました。何かあるとそれにこと寄せて大げさなことを言う人っているんですよ。そういうのだと思ってた。
(平田敦さんというお名前で掲載されているかたのインタビュー部分より)



 僕は、あの少し前に阪神大震災があったものですから、人間というのはなにかちょっとしたことがあると、ずいぶんと怯えるようになっちゃったのかなぁと、そんな風に思いました。爆発事故があったというので、それでパニックみたいになってしまったんじゃないのかと。そのときはまだ目も正常でしたから。
(橋中安治さんというお名前で掲載されているかたのインタビュー部分より)

わたしも同じような反応をするだろうな…、と思いながら読みました。普段バスや電車でもめ事を見ても「大げさな」と思ってしまうので。




■どの線も駅も時間帯も、コミュニケーションが起こりにくそうな車内が想像できる
朝の時間帯の千代田線と日比谷線と丸の内線。どこまで計算していたのだろう…。朝の沿線ごとの雰囲気の違いを知っていると、おそろしく感じます。ほとんどの人が通勤中に「咳をしている人が今日はやけに多いな…。あれ? 自分もかな」みたいな感じで、黙っています。
地下鉄の線によっては「毒ガスだ! 窓を開けろ! 逃げろ!」みたいなことを言う人がいた線もあるのだけど、原因が目に見えないと、こんなふうに個々がおかしくなっていくのかという様子がわかります。




■個々が認識を打ち消したり、そんなに異常ではないと思おうとする
もう映画のような悲惨な状況でも、多くの人がそれを認識できず、パニックの前の時間がゆっくりと過ぎていきます。「なんだろう」というまま時間が過ぎていく。この感じが、実際そうなんだろうなと思う。ものすごくショックな出来事が起こった時に、頭の中でなにかを凍結させようとするあの感じがそれぞれの中で起こる。
いくつか、印象的な語りがありました。(強調点のついているところを太字にしています)

 わかっていただきたいのですが、もしこれが痛烈に痛いとか、吐いたとか、急に目が見えなくなったというのでしたら、私だってすぐに電車を降りていたと思うのです。でもそういう状況じゃありません。徐々にじんわりと身体にまわってきたんです。結果的に、銀座についたときにひどい状況になっていたということです。私は大きな病気もしたことありませんし、入院したこともありません。身体はずっと健康でした。だからそこまでじっと我慢してしまったのかもしれません。
(駒田晋太郎さんというお名前で掲載されているかたのインタビュー部分より)



 それがよくわからんのですよ。私は初めて体験しましたが、人間というのは予見の材料を与えられえていないことには、一瞬の判断というのはなかなかできないものなんですね。「今日はいやにてんかんのような人が多い日だな」って。それくらいですよ。そういう状況から私が想像できるのはてんかんの症状くらいですし、それ以上のところにはいかないのですね。「なんか変だ」という疑念は、ベースにあるわけですが。
初島誠人さんというお名前で掲載されているかたのインタビュー部分より)

「なんか変だ」という疑念がありながら「とりあえずこういうことにする」とみなして進んでいく瞬間は、日常の中にたくさんある。差異を詳らかにするという思考は、やはりかなりの脳内労働なんですよね。通勤時に、そんなことしたくない。




■被害者=被害者的な考えかた、だけではない。「悪」について思いを馳せる人もいる
序盤のインタビューには何人か駅員さんが登場するのですが、普段駅の中で人を見ていると「こういうことが起こる世の中」について意外でもないというようなことをお話されている人がいて、ほかにもいくつか印象的な語りがあるのですが、以下は世代に関係のない感覚だと思いながら読みました。

 会社なんかでも判断に迷っているときに、上から「こうやれ」っていわれれば、それは楽なんです。何かあっても、それは上の人の責任になりますから。自分は責任を逃れることができる。とくに私なんかの世代には、そんな世代的な特徴があるかなって思います。だから彼ら信者がマインドコントロールされるという感覚も、わからないではないですよ。
片山博視さんというお名前で掲載されているかたのインタビュー部分より)

この事件当時すごく「マインドコントロール」という言葉を耳にして、以後も「洗脳」と言う単語もよく耳にするようになりました。「決めてくれたら、やるのに」「言ってくれたら、やるのに」と思うことは、家庭内でもあること。こういうさまざまなことについて思いをめぐらせている人が何人か登場します。


マインドコントロールについては、ひとつ気になる箇所がありました。
この本は事件のあった地下鉄の線ごとに章立てされていて、インタビュー集の前に実行犯の行動が要約されています。
いちばん多くのサリンが撒かれた日比谷線の実行犯とその散布量が決まる経緯の文章は、短いなかにそのマインドコントロールの構造がギュッと要約されていました。「見定め」の儀式のこと。こういうことも、けっこう身近にあることです。

 三月ニ○日早朝の第七サティアンでの「実地訓練」の場で、みんなが二個ずつのサリン入り袋を受け取ったときに、林泰男だけが三個の袋を取った。ひとつ余った半端な袋を自ら進んで引き受けたのだ。
日比谷線 北千住発中目黒行き より)

この前後の部分を読みながら、こんなふうに忠誠心を試すようなことって、組織の中ではよくある…と思いました。その組織のなかで多く受け取らない選択ができる立ち回り方を考えたり関わり方を変えたり、そういう思考ができなくなる気持ち、わかる。と思いながら読みました。こういうことって子育ての場でもあるだろうし、構造としてはぜんぜん他人事ではありません。



この本ではオウム真理教そのものについても触れられているのですが、わたしは当時の記憶として「悪い人って、もっとあからさまに悪くて、あんなふうに学芸会みたいなことをする大人たちは悪いというのとはまた違うんじゃないか」というふうに思っていました。同じようなことを、弁護士のかたが語っている部分がありました。

 オウムの示すこっけいさの裏にある残虐さが、おそらく警察当局には見抜けなかったのだと思いますね。彼らのやっていることがあまりにも荒唐無稽で、漫画的すぎて、ピエロの仮面の奥にあるその底なしの恐ろしさを、見通すことができていなかったということです。
(弁護士 中村裕二さんのインタビュー部分より)

「漫画的すぎて」というのは、ほんとうにそうであったなぁと。地方に住む学生から見たら「東京で抑圧された大人の人たちが童心に返りたくなって、ああいうことをしているのかな」というふうに見えていた。警察じゃなくても、残虐さは想像しにくかったと思います。


この本は1997年に発表されたものの文庫で、最後に【「目じるしのない悪夢」 私たちはどこに向かおうとしているのだろう?】という文章が収められています。そのなかで、オウム真理教を「あちら側」として、こんなことが語られています。

実際の話、私たちの多くは麻原の差し出す荒唐無稽なジャンクの物語をあざ笑ったものだ。そのような物語を作り出した麻原をあざ笑い、そのような物語に惹かれていく信者たちをあざ笑った。後味の悪い笑いではあるが、少なくとも笑い飛ばすことはできた。それはまあそれでいい。
 しかしそれに対して、「こちら側」の私たちはいったいどんな有効な物語を持ち出すことができるだろう? 麻原の荒唐無稽な物語を放逐できるだけのまっとうな力を持つ物語を、サブカルチャーの領域であれ、メインカルチャーの領域であれ、私たちは果たして手にしているだろうか?

ここを読んで、ふと「コンビニ人間」という小説を思い出しました。
昨年の芥川賞作品。わたしは友人・知人でこの小説を読んだ人と「なんかこういうの、いよいよ来たかという感じがする」と話したことがあるのですが、たとえば社会との関わりかたのひとつの物語として、「コンビニ人間」のようなものも有効なのだと思います。あざ笑われても、わたしはやっぱりここが肌に合うので、ここで呼吸を続けていきますというのが許される世界。


被害者の話を読んでいるのに怒りとは違う感情がたくさん沸くのは、時間を経て読んでいるからというのもあると思うけど、時間を経たという面でいうと「なんであんなに地下深くまで細い階段で降りていく大江戸線が、いま普通にアリな感じになっているのだろう」とか、別の面でも考え事がたくさん沸いてきます。
(このあと「約束された場所で ― underground 2」も読みました


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