先日紹介した「アンダーグラウンド」の続編で、この本はオウム真理教信者へのインタビュー。
8人の信者へのインタビューのほか、巻末に河合隼雄さんとの対談が収められています。
信者へのインタビューは、読んでいると気持ちとしてわかるところも多々あるのだけど、なにかがずっとひっかかる。わたしは自分自身、そういう方向へ行きそうな因子自体は持っていると思うのだけど、なぜそっちへいかないか。
読みながら、ずっと同時に考えていました。「うん、気持ちはわかる。でもそこでわたしは、そうならないんだよなぁ…」というポイントがどこにあるか。
「生きることは、苦しいことだ」
ここまでは、同意。同意なんです。
でも、だからといって
「生きることは苦しい=この世の中は、よくないところだ」
とは、やっぱりならない。
嬉しいことも嫌なことも自我の反応だけど、嫌なことがなければよい世の中と思えるかといったら、それも不思議な気がする。そんな道理があるとも思えない。ちょっと状況がよくなることのためなら頑張れるけど、劇的によくなると言われると「なんか裏がある」と思うし、ジョークのおもしろさなどはこういう感覚がないと楽しめない。このインタビュー集を読みながら、わたしにのなかに「苦しい世の中=シリアスすぎる世の中」という、うすぼんやりとした基準があることに気づきました。
信者の中でも岩倉さんという女性はなんとなく普通にヨガ教室で出会えそうな人で、過去を振り返ってこんなことを語られています。
でも実際に教団に入ってみると、そこは一般の社会とほとんど同じなんです。たとえば「何々さんは嫌悪が強いよね」とか言ったリするんだけど、それって結局は悪口じゃないですか。ただ使っている用語が違うだけで。
このかたは記憶を電気ショックで消されてしまっているのですが、教祖に性的な関係を迫られたときのことも語られています。
用語についての滑稽さは各所にあって、でもそれはいまの時代になって仏教やヨーガの用語が知られるようになったから。ここは日本語化しているのにここはサンスクリット語のままなのか…、とか、そのちぐはぐさが気になります。
以下は信者の細井さんというかたのインタビューにある表現なのですが
普通の場合、部のリーダーは「師」がなるのですが、僕はまだ師じゃなくてスワミというその下のほうの位でした。
「どうせ俺、スワミだし」とか思うのかと想像すると、なんだか不思議な感じがします。
論破する人を「かっこいい」と思う感覚も特徴的です。「言い切り」に弱すぎる感じもします。
以下は、波村さんというかたのインタビューにある表現です。
オウムの信者たちのやっていることは、原始仏教をベースにしたもので、修行によってクンダリニーを開発しているのだと彼は言っていました。何事によらず受けた質問に対しては、実にきれいにさっと答えを返しています。すごいなあと思いました。すごい人だし、すごい団体なんだなと。
内容の正確性を確認しようという方向へ行かず、「さっと返答できる=すごい」と、運動神経的に反応してい人が多いのが気になります。原始仏教の原始ってどこ基準の原始? という感じにはならず、そこはあっさりしている。先の岩倉さんのように「なんか用語を特有にしているだけなんだろうけど、まあそれでも現実社会よりはここのほうが居心地いいし、どっちでもいいや」という人も、論破する雰囲気に持っていかれる人も、両方いたようです。
確認したり見直したりひとりで考えるエネルギーがなくなってしまう感じ自体は、体調によってはわかるのですが、調べようとしてもできなかったのかな…。
阿蘇に教団施設を建てようとしていた頃のことを振り返る人も多く、以下は稲葉さんというかたのインタビュー部分なのですが
いや、やはりそれなりの葛藤はありました。最初に行った阿蘇の時だって、なんでこんなに無駄なことが多いんだ、とあきれてしまうことはありました。せっかく建てたばかりの建物をすぐ壊しちゃうとかね。作ってみたものの都合があわないとか、それでぱっと壊しちゃうんです。これじゃまるで学校の文化祭じゃないかと思いました。
カギュ派のチベット仏教でミラレパに課されたマルパによる修行のパターンをなぞっているように見えます。
インタビューの中で解脱について「解脱をするまでに四年かかりました。」と語る神田さんという女性は、教団の宣伝チラシのポスティングや街頭配布を迷惑行為とは考えなかったようで、こんなトーンです。
これは楽しかったですね。やっぱり奉仕活動のあとには、「やったあ!」という充実感があります。なぜかよくわからないんですが、心が明るくなっていくんですね。そういう経験をしました。奉仕活動即ち功徳です。功徳を積むと上昇エネルギーが強まります。オウムではよくそういうことが言われているんです。
「なぜかよくわからないんですが」のところで自己を振り返る方向へ行くときと行かないときって、たぶんコンディションの揺れで多少誰しも幅があると思うのですが、考えないほうに振り切っちゃっているように感じました。運動不足だったのではないかとか、寂しかっただけなんじゃないかとか、そういうふうには考えない。こういう精神状態のときにバガヴァッド・ギーターを読んだら、どうなっちゃうんだろう。
最後の河合隼雄さんとの対談のなかにもいくつか気になるところがあって、河合隼雄さんの以下は、いまでもそうだなと感じるところです。
それとこれまで、死に関するストーリーというのが世間になさすぎたんです。だから麻原のようなあんな単純な物語でもすごい力を持つことができたんです。昔は死に関するストーリーがいたるところにありました。この世なんていうのはそもそも大変なんだから、死んでからどうやってハッピーになれるかと、そればかりだった(笑)。だから親鸞さんの話とか聞いてきんな感激していたわけです。
まえに真宗のお寺で「お墓に "○○家の墓" ではなく 南無阿弥陀仏 って彫ってあれば、死んでまで夫の家族と同じ場所に居たくないと思っているお嫁さんも、まあちょっとは入ろうという気になったり」というような話をおもしろく話すお坊さんを見て、こういう小話もっと聞きたいなぁおもしろいなぁと思ったことを思い出しました。
以下の村上春樹さんの発言は、わたしも同じように思うところです。
僕もスポーツをやっていると、その中である種の覚醒みたいなことはあるんです。でもそこに精神的な意味を見出すことはありません。そういうこともあるんだろう、くらいに思ってます。うまく言えないんだけど、まわりとの関連の中で捉えているのかな。ところがこの人たちはヨーガをやってある種の覚醒があると、ぽーんと一気にそっちに行っちゃう。そしてまわりの世界との繋がりを放棄しちゃうんですよね。このへんはオウムだけでなく、ニューエイジ全体に言える危険性だと思うんですが。
多くの人はいろんなことができるようになったときでも「体液を通じて脳とつながっているのだから、足の指が開くようになるのと同じように、意識も稼動域が広がったりするのだろうね」となるのですけどね…。
超越願望みたいなものって、あまり年齢とは関係がないように見えました。「社会での居場所を失いたくない」という気持ちって、やっぱり大切。
小さい居場所をたくさん作れればよかったのかもしれないけれど、当時はそういう社会でもなかったと思うので、つらかったんだろうな…。と、そんな気持ちで読みました。