ごくたまにですが「ヨガでケガをしたことがない」というと「えー」という反応をする人がいて、わりとがっつり系のヨガをしていた人からは「あんなにヨガをしているのに?」といわれたりして、「ヨガをしているからケガをしないと思っているのだけど…」とループする。
そんなわたしも自然の中へいくと、10年以上ヨガを続けていてもよくケガをします。
川の中でよろけて石をつかんだつもりが、その石が苔まみれで指のあいだが裂けるような感じになって靭帯を損傷したり、踏み込めると思って踏み込んだ石がズズズと沈んで脚の付け根に痛みが走ったり。すり傷・切り傷・刺し傷など、絆創膏で対応するようなケガもよくします。
スキーでも、よくケガをしました。頭もたくさん打ちました。(これについては以前書きました)わたしが何歳になってもどうにもシリアスさに欠けてしまうのは、たぶんこのためです。
ヨガのときは自分の身体以外のところで重みを支えあうことがないので、あてが外れたようなことが起こる機会がありません。自然の中にいると、たとえば風にあおられて重みが加わったり、鳥が急に迫ってきたり、イレギュラーなことがあります。わたしの場合、ヨガは室内でやるほうがリラックスしやすいです。
ヨガでヒヤリとする瞬間は、意識を向け続ける瞬間の刻みが粗くなったり、異様にひとつのポイントにこだわりすぎたとき。自然の中でも同じように思うことがあります。野球やソフトボールの守備でイレギュラーバウンドをキャッチできたとき・できなかったときの意識の違いが「まさにそれ!」という感じなのですが、これは経験していないとわからないかもしれません。
こういう種類の執着は、それを続けようとする状態の人に外部から注意喚起しても、届かないことのほうが多いです。どこかが興奮している。(「びびる」も興奮です)
ヨガの場合は手順や理解の順番でケガのリスクを減らすことはできるけれど、ケガが起こるまでのストーリーとなると、それは個人単位のもの。内的な理由が根深いほど、外部からのアプローチでは届きにくいと感じます。
自分の体重の構成にものすごく繊細になると、ケガをしにくくなる
一律で端的にいえるのは、このくらいじゃないかと思います。
呼吸が大切というのは、呼吸を止めると一瞬身体のパーツの中を移動する体重の流れを感じないようにすることができてしまうため、そういう小手先のことでなんとかやってしまう思考をパターン化させないためではないかと思います。まぁスピリチュアルなことをいえば、肉体と精神体をつなぐとか、意識を繊細にとか、そういうフレーズにもなるでしょう。
ちなみに体重の構成は「残っている便の量、便の質」にまで及びます。わたしがヨガのクラスでついつい便の話をしてしまうのは、そのためです。
人間は表情や表現に包まれているからごまかされやすいのだけど、動かすものは液体の入った肉袋。そのなかに心が格納されているんですよね…。
少しウエイトが落ちると動きにエレガンスが出てくる人が多いのは、単純に手足がつかみやすくなるだけでなく、体重の総量が減ることで管理できる範囲が増え、余裕が出るのだと思います。