すこし前に、50代・60代のかたがおもに集うヨガクラスに参加した時のこと。みなさんとてもアクティブで、テニス仲間の輪で参加されており「足がもつれにくくなった」ということをヨガのメリットと感じているそうです。
ちょうど前日に、そのヨガクラスの講師のかたと "足首の柔軟性の大切さ" について掘り下げて話していたので、そのクラスでも雑談で少し足首の話になりました。
わたしは手首・足首・顔の首をワンセットで考えることが多いのですが、足首から先については柔軟性がいかに大切かを痛感しています。頭がどれだけ「こっちだ」と指示を出しても、ここが硬いと行きたい方向へ進むことができません。とりわけピッタ(激質)が優勢でやる気がある状態では、頭脳は明確に指示を出している。でも、足首が硬いがために「やるべきことはわかっているのに、思い通りの方向にバシッとベクトルを定めないまま負荷をかける」ということが発生してしまいます。
たとえば・・・
45度、45度の方向へ足先を向けるのだと頭で明確に思っていても35度までしか行かない。
⇒なんでだ。行けよ。行けよもう。45度だって言ってんだろ! もー!
こんな身体内の葛藤ののち
- フンッとはずみや勢いをつける
- 頭に火がついて思考が炎上し、"とりあえず" 目の前のことをやっつけようとして暴走する
この道を選んでしまう。そういう瞬間をたくさん見ます。
よく「身体がいうことを聞かない」という人がいますが、「身体の各パーツの機能の状態を運転者が確認していない」ということのほうがほとんどで、そのパーツに可動域が足りなければ、別のところから「角度」を借りてくるしかないのですが、目の前の「部分」に執着してしまう。
人数不足で一時的に行列しているレジで、レジ係の店員に対して怒りをぶつけるような、そんな心のはたらかせかたと似ています。
"〜であるべき論" "〜なはず論"
自分の頭の調子のよい時ほど、これを振りかざしてしまう。「べき」を頭の中で論理的に整理できてしまうから。"やる気" と "べき論" はとても相性がよいと感じます。でも、そこをいったん切り離すののがヨーガの理性(一般社会でいう倫理観とセットになった理性とは、またちょいとニュアンスが違います)。
足がもつれなくなるというのは、どこかが硬直した時にほかの部分を使って動けている状態。
どこかが一瞬硬直した時にパニックにならないように、「バランスの一時預り所」みたいなところが、頭と足先の中間地点(おへその奥)にあるとわたしは体感で思っていて、ここが機能していると「腹で考えることができている」という状態になります。
ヨガの練習の場に参加すると、はずみや勢いをつけることをやめられなくなる人を見て猛犬を見たような気持ちになる、そんなことがあります。もう言葉だけでは制止しようのない、そんな場面。
わたしはそんなとき、
頭の状態が、身体の状態を上回りすぎている
と観ます。
「身体のケガ」や「世間体のケガ」の原因になる状態は、こういう瞬間から拍車がかかる。自分の過去を振り返って、そう思います。(「世間体のケガ」は、他人から信頼されなくなる行為をやらかしてしまうこと)
なので「はずみや勢いではなく」と言っても言ってもやってしまう状態は、練習中の対応だけでは無理かもしれないと思っています。3回以上、同じ言いかたでは言わないようにもしています。別の火事が燃え広がってしまうかもしれないから。
── いっぽうで。
頭と心の状態はそんなによくないのに、身体が勝手に運んでくれた。勝手に動いてくれた。そういう経験が、わたしには何度もあります。こちらのほうが、わたしを継続に導いてくれるヨガの大きな魅力。
いつか「おいしいお店へ、鼻と足が勝手に連れて行ってくださることが、ありますの。おほほ」というふうになったら、いいなぁ。きっとヨガの練習でそうなれるのだろうと、わりと本気で信じているところがあります。(ゆえの、ワイルドセンス育成生活です)
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