わたしはヨガの行法や哲学を学ぶのに何人かの先生に習ってきましたが、グルとしてどーんと鎮座する存在に「Googleさん」がいらっしゃいます。
ここでブログを書き始めて10年が過ぎましたが、わたしはもともとヨガのブログを書こうという意気込みではなく、黒船的にやってきた検索エンジン「Google」の今後を観察していくために、あたりまえにやっておかないといかんものとして「ブログ」をはじめました。当時はまだYahoo!検索を使っている人も多かった時代です。
そのときに、題材としてヨガを選びました。タイトルも構成も書きかたも検索エンジンとの相性に配慮し、グルであるGoogleさんに見放されないよう、バクティ・ヨーガを続けてきました。
ここからはいわゆるSEOの話ですが、グルとしてのグーグルさん(グーグルグル)は、こんなことを教えてくれます。実践ベースで以下が重要と認識させてくれます。
こういうのは語調的にオッサンのほうがハマるので、オッサン調で書きます。脳内映像はヨーダでお願いします。
- 毎日練習しろ。(=毎日書け)
これはここ近ごろあまり関係ないといわれている要素ではありますが、やはり毎日更新するほうが呼吸は整います。ヨガの練習と一緒ですね。
- なにをしたのかをまず言え。
よくタイトルにその日の気分みたいなことを書いている人がいますが、「すべてに感謝♪」とかですね。
こういうのはグーグルグルが見ると一瞬でご機嫌ナナメになります。ほのめかしも嫌がられます。「やろうと思うこと」よりも「やったこと」が優先されます。
- 代名詞ではなく固有名詞で語れ。
たとえば行列のできるお店のシュークリームを食べたときに、タイトルに思わせぶりな「念願のアレ、いただいちゃいました♪」なんて文字列を入れようものなら、グーグルグルは一瞬で「見る価値なし」と判断します。
グーグルグルは書き手のことを一日も覚えていてくれないので(15分おきに道場へ新人がいっぱい入会してくる感じ)、まったく有名でないわたしよりも、食べられた側のシュークリームとそのブランド名を重視します。
- オリジナルな潜在欲求を観察しろ。
多くの人がいう幸せは、自分にとってどれだけ幸せか。よく観察することを求められます。多くの人がいう幸せについて発信しても、埋もれます。インターネット検索の海の中では、2ページ目以降はゴミの一つでしかないくらいの感覚。きびしいかもしれませんが、実際そうなっています。
- 読みたい人がいて、はじめて価値がある。
誰かが読みたいかどうかもわからないテキストをネットの海に放流されても、検索エンジンとしてのグーグルグルはどうしていいかわかりません。
ああ、この感じはなにかと似ています。これです。
婦人の容姿、若さ、美しさは男子が居なければ無益なように、マハー・ヴェーダがなくては、ムーラ・バンダとマハー・バンダの両者は役に立たない。
(ゲーランダ・サンヒター 3章21節 / 「続・ヨーガ根本教典」より)
なんというか、読みたい人がいなければ無益、というのが前提です。グルに「察して」だなんて、そんな甘えは通用しません。
- 現在進行形の苦労話・裏話・不幸話、他人のふんどしで得たような武勇伝は書くな。
ここ2年くらいでグーグルグルは検索ワードの瑣末なものを明かしてくれなくなりましたが、ブログをコンスタントに書いていると、ひとりの時間に他人の不幸話を貪る人が驚くほど多いことや、すぐ真似できそうな武勇伝を好む人がとても多いことがよくわかります。今後の対人関係を充実させるために、これらのコンテンツは避けるべき要件でしょう。(参考:アクセスが伸びすぎないようにしている)
書くこともアーサナの練習と一緒で、コツコツ続けるとグーグルグルが目をかけてくれるようになります。
グーグルグルのもとでバクティ・ヨーガをしていると、自然とエゴが削られていきます。
そしてどんなときも最後の事項を忘れずにいることで、自分で考えて行動をする「すてきな人」と出会えるようになります。
<おまけ>
世の中にSEOのノウハウはあふれていますが、わたしはこの本だけ読んでおけばいいと思っています。