うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

脳内おしゃべりを止めて「あるがまま」を観るときの感覚のこと

以前もゼロではありませんでしたが、ここ半年くらいで「瞑想」について質問を受けることが少し増えたと感じています。
なぜそんな話をしたいのか、こちらから少し掘り下げると2パターンに分かれます。

  • A:特別な体験(神秘体験というの?)をしたい
  • B:落ち着きたい。感情に振り回されたくない


わたしはAについては経験がないので言語化できません。
特別の「別」の切り分け基準を設定するところから始めなければいけないのだろうけれど、毎日が特別といえば特別だし、生命体でいえば虫一匹と同等のわたしです。
Bは話せます。わたしは自分で自分のことを「ヴァータ病」と呼んでいたくらいなので、頭の中の風をコントロールすることについてはいろいろ思うところがあり、ヨガの練習があってよかったと思う理由の多くは「落ち着きのなさ」へのアプローチです。ウォーキングもジョギングも、ヨガとひとくくりのものです。
いま思うとこの感覚を文章化しようとしていたことに自分でも驚くのですが、過去にこのように書いています。


こういうことを書いていたのが2010年くらいまで。
自分が書いたものをさかのぼって読むと当時どんなことを考えていたのかが少しわかるのですが、すでに情報過多で難儀しているのがわかります。でもまだ今よりも若かったから、そこは有り余るエネルギーでなんとかしのいでいた。
そのあと地震や災害を見て、世の中に「危機を知らせる情報」が増え、「情報の情報なのだ」みたいなものやガセまで含めると、取捨選択続きの日々になりました。
2013年に、こんなことを書いています。


インプット過剰の日々。
電車に乗ればアナウンスだらけ、道を歩けば広告だらけ、レシートを捨てるときまでレシートに広告がある。
このあたりから「不要な情報の切り捨てかた」について積極的に意識を向けるようになりました。
昨年、こんなことを書いています。

いまは生活の上で「情報の根っこだけをさっと取り出す」ということが少しできるようになって、だいぶラクになってきました。
印象付けのための誇張や装飾、初歩的な警戒心を解くための権威ブランド説明、などなどのことは後で見る。「なんの情報なのか」を先に取り出し、要らなければスルーする。
いまは「ストーリー」でモノを売る時代と言われていて、本体以外の情報がどんどん増えている。世のなかには感動の物語がいっぱい。でもその感動は、寝る時間や友人と語らう以上に、必要かしら。


これは2010年に書いたことですが、今でもこの感覚は変わりません。
デフラグはパソコンがやってくれる作業なので、自分自身をパソコンに置き換るなら、やっているのは「写実」に似た作業。
あるがままのことを、確認して置きなおす。



わたしはこのことに似た経験があったので、わりとスッと入っていけました。やっていることが、高校生の頃に大学受験のために毎日やっていた静物デッサンとよく似ているのです。
デッサンは物体の形体・量・質・光などの要件を平面に描画するのですが、物体が複数になるとそ「位置関係」という「関係性」が出てきます。これをいちいち確認するような作業が、なぜか安らぎをもたらしてくれる。



これはわたしが高校生の頃の、デッサン練習。胸像は木炭デッサン。
はじめは「形」を「面」で理解するために、右下にあるようなシンプルな形状の鉛筆デッサンから練習を始めます。
この感じはアーサナの練習ともよく似ています。そしてこの段階が、やはり瞑想の練習のスタート地点であったように今となっては思います。(倍以上の年齢になりましたが…)


日常の生活では、わたしもよくある日本人の思考をします。自分と外部との関係で混乱し、ときに自分すら捉えることをせず、その場において合理的とされているであろう振る舞いでやりすごします。そしてそれを続けていると、ひとりになったときに、なにかが負債のように不安という形になって感じられてくる。その重みを振り払うために、またやみくもに動いてしまう。わたしが落ち着きを失うときの段取りを分解すると、こんなパターンです。
わたしがアーサナをするヨガにハマった初期は、単純に余剰エネルギーを燃やし切ってスカッとしていました。でもその後も10年以上続けている理由は、やはり「思考から言語を切り離す瞬間の身軽さ」を求めているのだろうと思います。