うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

対話のレッスン 日本人のためのコミュニケーション術 平田オリザ 著


1997年〜2000年に書かれているので出てくる題材に時代感はあるものの、課題はこのまま進行していて、ただいま2016年。さて。と思いながら読みました。
甘えの構造」「日本人の思惟方法」に書かれているような、驚くほど変わっていないコミュニケーションの「前提」を、すごくわかりやすく拾い出してエッセイにされています。
この本では現代の不安の核心を探ろうとしていて、

私は、それは、経済の不安や、政治に対する不信から来るものだけではないと思っている。この不安の核心を一言で示そうとすれば、それは、「自分の幸せを自分で決めなければならないことに対する不安」とでも言えるだろうか。
(P178 対話のない社会 三 より)

と語られています。
わたしは察してもらえるのがうれしいときというのは察して欲しいメッセージがあるときなのだけど、特にメッセージがないのになんとなく察してくれたような笑顔がうれしいとき、自分は脆いと感じます。きれいでやわらかいゼリーの地面をなんとか歩いて、地面がきらきらしているからなんとなくニコニコしているような。死んだように楽しそうに生きてるね! と、自分をあざ笑うような気持ちがたまに現われます。



以下は、著者の世代(1960年代生れの人)でここを認識しているのがすごいな、と思いました。

 私たちは、新しい対話の言葉を見つけなければならない。難しい理想の話ではない。それはたとえば、サッカーのサークル活動が、会社の仕事に何故優先するのかを、きちんと上司に説明できる言葉である。逆の場合だってあるだろう。会社の仕事が、家庭生活に優先すると判断したときには、そのことを家族にきちんと説明しなければならない。「仕事だから仕方がない」という説明は、もはや許されない。「男は、外に出ると色々たいへんなんだ」などというのは、実は私もそれに近い言葉を使うときがあるが、それ自体、最低の言語であると覚悟しなければならない。
(P184 対話のない社会 三 より)

ネットスラングなどを見ていると、揶揄の表現がどんどんキツくストレートになっています。会社員が「仕事だから仕方がない」と言えば社畜(会社の家畜)、肥大した自我を収められず自分の見たい理想だけ見たいという態度は中二病(中学二年生のような思春期メンタル)といわれる。わたしはこういう表現の要約力に感心したりすることがあるのだけど、価値観の示しかた自体は増えているとして、さて対話となると、どうだろう。



わたしはサンスクリット語の本を読むときに英語を挟むのですが、そういう読みかたをしているときに感じることが書かれていました。

たとえば、「べし」という助動詞は、現代語に置き換えると、推量、意志、可能、当然、命令、適当と六つの意味があり、前後の文脈から類推して現代語訳を行わなければならない。
(P123 日本語はどう変わっていくのか 二 より)

古語の「べし」を読むときの話なのですが、教典を日本語にするときは語尾に「べし」をついつけたくなるんですよね。とても便利な語尾。サンスクリット原文にこの「べし」の要素がないものでも英訳に should が入っていることも多く、ああ英語でもそんな感じなのだなと思う。



以下も、あくまで未来に対して前向きなスタンスがすてき。

たとえば近代の初めまで、ヨーロッパの人々は、哲学などの難解で理論的な文章を書くときにはラテン語を使用していた。(中略)ヨーロッパ人は長い年月かけて、自国語で哲学を語れるようにしたわけなのだが、それを日本人は、たった数十年でやろうとした。あちらこちらに無理が出てくるのは仕方のないことで、それは私たち子孫が、少しずつ修正していけばいいのである。
(P127 日本語はどう変わっていくのか 二 より)

わたしは村上春樹さんの小説をあまり読まないのですが、エッセイを読んでいるとあの文体の感じはこういう修正の機能をもっているように思います。バガヴァッド・ギーターの訳のバリエーションを見ていても、似たことを感じます。



フランス語についての以下の記述も興味深かったです。

 フランス語では、結論は主語のすぐあとにくる。だが、本来は、日本語でも、こういった場合は、結論を先に言っているのだ。たとえば、
「今日さ、行けなかったんだよ、御茶ノ水。渋谷から新宿で乗り換えていくつもりだったんだけど」
という具合だ。
 稽古場では、丁寧に、一つひとつの言葉、原文を参照しながら、どの情報がどの順番で観客に示されるべきかを考えて、語順を整える作業が続いた。
 こうして私たちは、最後に、もっとも大きな壁にたどり着いた。文化、風俗の違いという奴だ。フランス人が何を大事に思い、何を愛し、何を憎んでいるのか。それが理解できなければ、とうてい日本の観客には理解不能な台詞や理論展開がいくつも出てきた。
(P148 フランス人との対話 二 より)

とうてい理解不能かもしれない書物を開いて、書き手が何を大事に思い、何を愛し、何を憎んでいるのかを理解しようとしながら行う読書を、わたしはやっと最近できるようになってきた気がします。こんな中年で、やっとです。自分にどんな好都合な世界を見せてくれるのかと事前に品定めしてからでないと情報すら摂取できない大人が、情報の取捨選択などできるわけがなく、ましてや文脈などつかめるわけもなく。こういう日本的な感じを、外国語を訳すことではじめて知るという人は、けっこう多いのではないかな。



「ため口」「敬語」によるマウントについての話もありました。

敬語は、ある種の権力性を持つ。敬語を使われる対象(目上)が「なんとなく」偉いような感じになり、それがただ偉いだけでなく、議論のなかでも、「なんとなく」正当な意見のように聞こえてきてしまい、会議をリードしてしまうのだ。
(P162 ため口をきく より)

日本語はここ数年、「させていただく」と言いながら下から積極的にマウントする方法も定着してきたので、技が出揃ってきた感がある。


いま20代30代で活躍している人を見ていると、相手や場面ごとに「この人は敬語をどう受け取るか」ということまでわかっていて、すごく文脈を読む力が高いと感じます。
自己正当化のために言い捨てたり吠えるような言葉しか持てない今後は確実にせつない。今のうちに読んでおいてよかった、と思う本でした。


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