有名な冒頭「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」から、終盤ドスンとくる「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。」にたどり着くまで、1年半かかりました。長かったけど、ここまでの読後感はなかなかない、過去にない満足感の読書体験でした。
この本は2013年の終りくらいに手をつけたのだけど、同時進行で中・長編を10作読んで夏目漱石に夢中になりながら、横ちょになんとなく置いたままにしていました。はじめに3章(作為的な女性の鼻の醜さをあげつらえて大バッシングするあたり)で挫折したのですが、会話の場面でも話し手が変わるときに改行しないというスタイルに慣れるのに時間がかかったのだということがあとでわかりました。
そのあとまたチビチビ読み進めて6章くらいで放置していたのですが、「知的生き方教室」を読んだ後に手をつけたら3日で読み終えられました。小説は、リズムやトーンの似たものを続けて読むと読めるんですね。「知的行き方教室」のなかに、満員電車の中で思うことの脳内描写がめちゃくちゃ早口のラップみたいに展開する場面があるのですが、読みにくいと感じたのはそれが古い日本語で展開されていたからかもしれません。
結論から書くと、あまりにも名作すぎてびっくり。いくつかの視点で感想を書きます。
■30品目のサラダ
「30品目のサラダ」って、「そりゃ健康にはいいんだろうけど、なにを食べたのかわからない」ってかんじがして、好きなサラダは「シーザーサラダ」とか「ポテトサラダ」とかってことになると思うのですが、「吾輩は猫である」はのちの夏目漱石小説のエッセンスがてんこ盛りで、「30品目のサラダ」のよう。
いくつもの作品を読んだ後のほうがモトネタ探しのようなおもしろさがあります。最後の作品「明暗」と「吾輩は猫である」はしっかりつながっています。
■ギャグの語感が高度すぎ
「吾輩は猫である」は、語り手が猫だという設定のおもしろさで読めちゃうのだけど、言っていることはけっこう高度。なるほど「坊っちゃん」ではこの作品の語感の部分をうまく大衆化したんだな、などと思いながら読みました。
「ずうずうしいぜ、おい」 「Do you see the boy か」なんてやりとりは、目と耳を同時に稼動させないとついていけない。
■脳内にさまざまな作品が想起される
銭湯の章ではテルマエ・ロマエ、三人の子供がじゃれる章ではサザエさんを想起する人がいるんじゃないかな。初めて銭湯をのぞいて見た猫が「湯槽の方はこれぐらいにして板間を見渡すと、いるわいるわ絵にもならないアダムがずらりと並んで各(おのおの)勝手次第な姿勢で、勝手次第なところを洗っている。」という。
10章にワカメちゃん&タラちゃん&イクラちゃんが会話するようなシーンがあるのだけど、ものすごくかわいい!
■細君と妻君の書き分け
ざっくり書き分けられているように見えます。いわゆる "奥さん" らしく、かわいいなというときは「細君」。 "女のくせに" 自己を出しすぎたり女性が主体的になにかを推し進めようとしているときは「妻君」。
■終盤の女子会と結婚論はまるでジェーン・スー
女性二人が話す場面で「人間は魂胆があればあるほど、その魂胆が祟って不幸の源をなすので、多くの婦人が平均男子より不幸なのは、全くこの魂胆があり過ぎるからである。どうか馬鹿竹になって下さい」という演説を聴いたという話が出てくる。読みながら、「私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな」を読んだ女性同士の話かと思った。
■独仙さんがウパニシャッドすぎる
この小説には、「三四郎」の広田先生が仕上がる前の人物が出てきます。独仙さんという人なのですが、わたしもこれはモトネタはドイセンだと思います。(参考:Wikipedia)
そして、その独仙について迷亭という人物が「独仙も一人で悟っていればいいのだが、ややともすると人を誘い出すから悪い。現に独仙の御蔭で二人ばかり気狂いにされているからな」と語る場面を設定している。そのバランス感覚に圧倒されます。
■頭を使って精神的なはずが、食いしん坊で唯物論的
猫も飼い主も食いしん坊です。飼い主が終盤で独仙さんや迷亭君の伯父さんの登場によって自身が物質にとらわれていることに気づいていくあたりから、ページをめくる手が止まらなくなりました。
「門」の宗助、「行人」の一郎、「こころ」のKなど、精神的世界と物質的世界の間で揺れる人物が夏目漱石作品に多く登場しますが、変化に気づくプロセスの描き方として「吾輩は猫である」はすごくおもしろくて、「へんくつなのに、スイーツを制御できなさすぎでは」というツッコミをしたくなるところがいい。
■牡蠣的主人、蒟蒻閻魔、陽性の癇癪持ち
人間のほうの主人公は、猫からは「牡蠣のような人間」として扱われ、姪からは「蒟蒻閻魔」と陰口を言われます。そしてこの人は「陽性の癇癪持ち」。「陰性の癇癪持ち」はのちに「彼岸過迄」という小説に登場します。
猫は「主人は好んで病気をして喜こんでいるけれど、死ぬのは大嫌いである。死なない程度において病気と云う一種の贅沢がしていたいのである。」と、なんでもお見通し。
■「親切」の問題に終盤かなりの文字数が割かれている
11章の「英国の天子が印度へ遊びに行って、…」という話の前後にある「親切」の話から、寒月くんの「ヴァイオリンを買う金も買える店もあるのにどうにも買えない話」に繋がるクライマックスまでの流れがいい。ラストは何度も読み返したくなる。
■猫だけはずっとリア充
- 女性の影響というものは実に莫大なものだ。
- そもそも恋は宇宙的の活力である。
- 安心は万物に必要である。吾輩も安心を欲する。
- 吾輩は近頃運動を始めた。
運動についても猫グルジはかなり意識的に考えていらっしゃって、ここは全ヨガ講師必見の部分かと思います。恋も、燃えるときは燃えておきながら未練を残さない。そういうところはかっこいいのに、ドジ。かわいい…。
自然をこねくり回したり勝手に定義して探偵・高利貸し・不動産屋のような商売をしたり、相手を値踏みして利権の駆け引きをすることへの嫌悪感をあらわしつつも、人のこころという "自然" を扱って生活していく「小説家」という仕事への意識の根も感じられる。
とんでもない作品でした。バイブルにします。
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