1999年、48歳のときに脳溢血で亡くなった大野薫さんというサーファーの人生を、周辺の人のコメントなどから追っていく本。
ジェリー・ロペスの本のような内容を期待して知人宅で借りてきたのだけど、完全に伝記に近い内容。1951年(昭和26年)生まれの、当時「高感度」といわれていたであろう人たちを包んでいた時代感、考え方を記述したものとして、これはこれで、いろいろ考える材料があって興味深く読んだ。
<143ページ "Take off" より>
70年代、ベトナム戦争や学園紛争の終結後、高度経済成長を遂げていた日本にもたらされた新しく自由な価値観への変化は、サーフィンというスポーツ、あるいはそのライフスタイルにも大きな影響を与えた。その真っただ中で、大野薫は東京や湘南での生活の中に、果てることのないロマンティックな快楽を求め続け、またサーフィンジャーナリズムの中にメッセンジャー、もしくは文章家としての自分の姿を見出していった。
というような人。この本には、アメリカン・カルチャーの影響を受けていく日本人の姿も描かれる。
<55ページ "Take off" より>
僕らの世代っていうのは、東京オリンピック後の高度経済成長で、世の中に少し余裕が出てきて、好き勝手に生きる風潮が始まった頃だったんじゃないかな。それでも大半は、僕も含めて一応は会社に就職する道を選んだんだけど、大野たちのようにサーフィンだけして生きていくような個性的で自由な人種が増えていった時代なんでしょうね。
いまも「好きなことだけして食べていく」みたいな風潮はあるけど、やろうとしていることは地道なことだったりする。この本の時代とは全く別物。またオリンピックをやってもこうはならないだろうと思うのだけど、やはりこの本の時代の人はそのときの感覚をまた味わいたいのだろうか、などと思う。
<58ページ "Take off" より>
彼の様々なアイデアはいいものが沢山あったと思うけれど、それを実現させるための地味な努力が彼には出来なかったんだろうな。だから、その日その日を生きていく、みたいな彼の姿を遠くから見れいて、よくそれだけでやっていけるな、と思ってましたね。
生きていたら今64歳。地道な努力ができないと、生きていても、別のつらさがあっただろう。この時代で想像する以上に、いまは地道な努力が見直されて美徳とされている。この本だって、いまの感覚で若者が読んだら「なんでこういうことを美化するの?」という疑問が多いだろう。
<77ページ "Take off" より>
僕の理想とするサーフィンていうのは、カオル君がよく言っていた "メロウ" なサーフィンですね。競技としてのサーフィンていうのは、言ってみれば "バイオレンス" だからね。 "メロウ" なサーフィンて、波や風が自分の生き方とバイブレーションしてて、サーフィンの方が自分の生活の中へ入ってくるような感覚なのかな。カオル君はいつもその感覚を人に対して発信していたわけですよ。彼の説によれば、サーフィンは崇高であり、最高のものであって、この世でサーフィンほど素晴らしいものはないんだ、ということだった。
この本を読んでいると、「かっこいい⇔かっこよくない」≒「アメリカ的⇔いままでの日本的」みたいな感覚がものすごい勢いで広がっているムードが伝わってくる。
いまはお酒やドラッグのことを謳歌するものがかっこ悪いものとして扱われるようになってきていて、わたしはお酒を飲む人が減っている今の若者寄りの流れが好き。この本はいろんな人のコメントがあることで偏りが緩和されているけど、仲間の人たちが「この人を肯定できる自分」という結びつきで共依存していた感じは、わたしが悩み相談本を愛読していた中島らもさんについて語られる文章に似たものを感じる。
「器用貧乏」って、ほんとうに貧乏になるしかないほど不器用だったら言えもしないだろうから、やっぱりそれなりに感覚の優れた人が謙遜して使う言葉だと思っている。この本にある世界には「器用貧乏」とすら言えなかった、全体的に勢いがありすぎて奇妙なかたちで身を立てていけちゃった時代のせつなさがあふれている。そんなふうに見えました。