以前バガヴァッド・ギーターを再読した感想をブログにアップしたときに、ヨガのインストラクター養成講座を受けたという人から「ああいう読み方もアリなんですね」とコメントをいただいたことがありました。
アリもナシも、日本人ならこの読み方を同時にするよね? と思っています。
ヤングはさておき、昭和生まれの世代の人なら、それが悪用も可能なほどパワフルな書物であることを理解できる素地があります。
オウム真理教の事件が起こった国
これは他国にはない、特異な経験です。
そんな前段がありつつ、今日はインドの作家が書いた小説の中にバガヴァッド・ギーターの悪用例を見つけたのでご紹介します。
タゴールの書いた小説「家と世界」
この小説は古本でしか買えないのですが、わたしは図書館で借りることができました。
こんな小説です。
<本の背景>
- 1905年~1908年にインドで展開されたスワデーシ運動(外国製品の不買運動)が題材
- 1915年から一年間雑誌連載された、タゴールが口語で書いた初めての小説(もともと詩人)
- タゴールの生まれたベンガル地方の言文一致はこの頃から(それまで文語と口語は違った)
- ベンガル地方はテロリストが革命家と見られる風潮があった
<物語の背景>
- 主人公は3人。夫ニキル、妻ビモラ、夫の友人ションディプ
- 3人はヒンドゥー教徒。ニキルとションディプは学生時代からの友人
- ニキルは村の領主で、ションディプはスワデシ運動の扇動者
- スワデシ運動は母国インドへの愛国心・イギリス統治への反発によるもの
- 妻ビモラの友人の息子(17歳の少年)が、扇動者に感化されフォロワーになる
- 夫ニキルは貧しいムスリム(イスラム教)の人々も住む地域の領主
- ニキルは彼らと共存する方法をずっと模索しながら友好的にやってきた
- 貧しい人々は安い外国製品が使えなくなると生活できなくなる
- スワデシ運動によってヒンドゥーとムスリムが政治的に対立するようになる
『バガヴァッド・ギーター』2章20節
この物語の中で、スワデシ運動の扇動者ションディプが少年オムッロを取り込んでいき、少年は運動を成功させるためなら、資金集めでもなんでもやるようになります。
以下その場面の引用です。(注釈部分は小説にあった注釈をそのまま転記しています)
オムッロは、上衣(クルタ)のポケットから、まずポケット版の『ギーター』を取り出してテーブルの上に置き、次に小さなピストルを出してわたしに見せました ── 一言も発さぬまま。
何ということでしょう! あの昔なじみの、年老いた会計係を殺そうという考えが、間髪を入れず彼の頭に浮かんだのです。彼の幼い顔を見ていると、鳥を一羽殺すことすらできそうにないと思えるのに、口から出る言葉は全然別ものです。要するに、この世界の中で年老いた会計係という存在がどれほど真実であるかも、まともに彼の目には映らず、そこにはただ空虚な空が広がるばかりなのです。その空には生命も痛みもなく、ただ教典の文句が記されているだけです──「たとえ身体が傷つけられても、傷つけられることはない*1」と。
(285ページ)
妻ビモラが驚く場面です。
わたしはこの物語を小説よりも先に映画で知りました。現在も英語字幕付きでYoutube上にアップされており、観ることができます。(末尾にリンクを貼ります)
バンデー・マータラム! というマントラ(呪文)
スワデーシ運動では「Vande Mataram」(母に帰敬す!)というマントラが掲げられます。
「バンデー」はアシュタンガ・ヴィンヤサ・ヨーガをする人が唱えるオープニング・マントラの Vande と同じです。
物語の序盤で、扇動者ションディプと村の領主ニキルがこんな会話が交わします。
長いのですが紹介します。
以下、ションディプのセリフからです。
「きみは人の心をたぶらかす呪文と言うが、ぼくに言わせればそれこそが真実だね。ぼくは、母国を本当に神様だと思っている。ぼくは人間こそが神であると堅く信じている──人間の中にこそ、神は本当の姿を現わす。国についてもそれは同じさ。」
「本当にそう信じるなら、きみにとって、ひとりの人間と別の人間、言い換えれば、ひとつの国との間には、違いがないことになる。」
「それは真実だが、自分の力が限られているので、ぼくには、母国への礼拝を通して国の神様を拝むことしか、できないのさ。」
「礼拝するのをやめろとは言わないが、他の国にも神様がいるのにそれに敵対までして、一体どうやってその礼拝が務まるというんだい?」
「敵対だって礼拝の一部さ。アルジュナ*2だって、狩猟民に身をやつしたシヴァ神と戦うことによって、はじめて願いが叶えられたのだから。ぼくらはある意味では神を攻撃するわけだが、いずれそうされたことを、神ご自身が喜ばれるようになる日が来るさ。」
「そうなると、母国に害をなす者も母国に尽くす者も、どちらも母国を礼拝していることになるね。それなら、格別愛国主義を吹聴して廻ることもないじゃないか。」
「自分の国となると話は別さ。胸の中に、礼拝せよと命じる声がはっきり聴こえるからね。」
「それなら、自分の国なんかより自分自身についての方が、ずっとはっきりその声が聴こえるんじゃないのかね。この頃、国内でも外国でも、耳に一番うるさく響くのは、自分自身の中に鎮座する神様を礼拝するとかいう、この手のマントラさ。」
「ニキル、きみの口からこうして出てくる議論は、ただ頭で考えただけの空虚なしろものだよ。『心』というものがあるってことを、きみは全然認めないのかい?」
「ションディプ、ぼくは本心から言っているんだよ──国が神様だなんて呪文を広めることで、きみたちが不正を義務、道(ダルマ)から外れた行ないを聖なるものとして通そうとしているのを見ると、ぼくの『心』はひどく傷つけられる──とてもじっとしていられないんだ。(以後略)」
(59~60ページより)
ニキルは、天皇陛下万歳と唱えながら残酷な行いをする同朋に自分は心を痛める、というようなことを言っているのですが、そこまでのやりとりでションディプがアルジュナの物語を引き合いに出しています。
わたしが注目したのは、ションディプの "自分の力が限られているので" という意識です。行動力と勇ましさの裏にある脆さをタゴールはこのように示します。
映画『Ghare Baire』
映画を観た後で小説を読んだのですが、映画版の要約センスがすばらしく、サタジット・レイ監督が脚本も書いています。
この映画の1時間13分くらいのところで、ギーターを持ったオムッロが登場します。