いつかこの部分の感想を書こうと思って1年近く寝かせてしまいました。
読み返すたびに、思い浮かぶことが変わる。そのくらい、この3人の思想家の態度は日常に寄り添うものがある。
今日書くようなことは、神輿のように担がれたり踏み潰されたり利用されたり、そういう経験の有無で沁みかたがかなり違ってくると思うのだけど、はからずも一般人もが袋叩きになる社会では、これからますますニーズが増していく教えだと思う。
今日の引用は全て「日本人は知らなすぎる 聖書の常識」という山本七平さんの著作からです。この本に書かれている3人の思想家の解説がシビれる内容だったので、紹介します。
<143ページ「旧約のなかのユニークな思想家ホセア」より>
ホセア書はまったく不思議な本で、前に引用したように人と神とが争い、人が勝つという奇妙ともいえる言葉が、この書に出てくる。
創世記に、アブラハムの孫ヤコブが神と争い、それが「イスラエル」と呼ばれるもとであるという記述がある(三十二章二十四節以下)。ホセアはこれを引用しており、ヤコブは神と争って勝つわけだが、なぜ、人が神と争い、そして勝つのか。この問題をも扱っているのがホセア書である。
神と争い、人が勝つというのは、ホセアにとって観念的な言葉ではなく、実感であった。人間が神と争うと、必ず人間が勝つ。しかし、勝つのだけれども、逆に人間のほうが、憐れみを求めることになる。ヤコブの場合もそうだった。
このような考え方は、そのまま新約聖書の思想につながっている。つまり、神の子イエスが十字架につけられたというのは、人と神が争って、人が勝ったことになる。しかし、人はイエスを十字架につけたあとで、ひるがえって神に憐れみを求める。この思想の起源はホセア書にあるといっていい。またこれは、西欧での文学の主題の一つとなっており、ドフトエフスキーの『罪と罰』もその一つであろう。
旧約聖書は、神を全能という概念で捉えている。全能というと、われわれは無限に強力な存在、絶対に負けない強大な権力者のような存在を創造しがちである。そのため全能の神が人間に負けるという発想には、非常になじみにくい。
聖書学者塚本虎二氏は、日本人のこのような全能という意識を笑って、「神が全能ならこうしてくれるはずだ」といった発想を「人間が全能という召使を持っているような意識」だといっている。「全能なる神」とは「アラジンの不思議なランプをもった人」の意味ではない。それは理解できないと神は全能なのにこうしてくれなかったといった不平にもなる。
神は全能のくせにちっともこうしてくれない、と人間が不平をいうことは、神を自分のために何でもしてくれる全能の召使とみているということである。
こういう見方を不可能にしているのが、ホセアである。
ここは、うなりました。「だってあなたは○○の専門家じゃないか。何年も○○してきたわたしに同意しろ!」「聖人なら依存させろ!」などなど、日本人だと本音はこうなるみたいなキャッチコピーがいくつも思い浮かぶ。お客様自身が「金で全能を買ったアバター神」だと自己認識してしまうような現象って、すごく特有な気がする。
<147ページ「エレミヤにはじまる個の意識」より>
エレミヤははっきり自己という意識を持ち、神は自分を通じて語るけれども、自分にはそれは耐えられず、しかし黙っているのも耐えられないという面があった。これは彼以前の預言者にはみられない。
そこには、個という意識が実にはっきりと出てくる。前にも記したが、中国の罪九族に及ぶとか、日本の親の因果に子に報いとか、先祖の罪の罰という発想は、どの民族にもあり、旧約にも非常に古い時代に「罪四代に及ぶ」という言葉があり、古代人らしいこの発想がまったくなかったとはいえない。しかしエレミヤはこれを断固として否定する。
(中略)
エレミヤの後のエゼキエルになると、いっそうはっきりとそれが出てくることは前に記した。この二人あたりが、人間における個の思想、「個人」対「神」の発想のはじまりと考えられている。
日本人の場合、こういう発想はきわめて弱く、つい罪九族に及ぶになってしまう。子供が大きな犯罪を犯すと、親が自殺したり、「親の顔が見たい」となったり、会社が何か事件を起こすと、社員ばかりか、その家族、子どもまでは、近所や学校で白い眼でみられる。まさに、罪九族に及ぶ以上のような状態で、そこには中国人のようにはっきり九族に限るという考え方もない。
こういう発想を絶対にしてはならないといったのは、おそらくエレミヤが人類で最初だろう。人類における個の意識はここからはじまり、それは一種の宗教性をもつから、キリスト教世界では前にのべた日本のような状態には絶対にならない。
人はおのおの個人として神の前にいる。この点が、エレミヤ以前の預言者ではあまりはっきりせず、神とイスラエルという発想が重点になっている。
この「キリスト教世界では前にのべた日本のような状態には絶対にならない」という説明、ほんとそうなんだよなぁ。吊るし晒し見せしめの国で、千利休の時代の人たちはこの精神をどう捉えていただろう。
<313ページ「パウロの特徴」より>
「タルソ生まれのローマの市民でユダヤ人」とは、以上の三つの特徴を備えた人物、いまの言葉でいえば、典型的な良き意味の国際人ということである。パウロには「内なる人」と「外なる人」という言葉があるが、この考え方もこれに該当する言葉も旧約聖書にはない。いわば、この思想は新約聖書、とくに国際人パウロにおいて独特なものと考えられる。
(中略)
旧約聖書では「内なる人」も「外なる人」も一体であり、「内なる人」が神を信じていれば、「外なる人」は神の律法を完全に守っているはずであり、「内なる人」が神を信じながら「外なる人」は律法を無視しているなどという発想はあり得ない。パウロにこの独特な思想が出てくるのは、やはり彼の生涯との関係で理解すべきであろう。いわば彼の一生は「外なる人」っとしてはローマ法に従い、その保護をうけ、また自らもそれを利用する人間だが、「内なる人」はあくまでも、ユダヤ人であった。
だがこれは、ユダヤ人には認め得ないことであった。彼らにとっては、神との契約が絶対であり、その契約である律法を厳守することが信仰であり救済であるから、パウロのような考え方をうけ入れる余地はあり得ない。というのは、現代でもイスラム教徒にとって、アラーを信ずることと、宗教法を遵守することは同じであり、宗教法の否定はそのままアラーの否定になるからである。
このことを考えれば、パウロの思想が、当時の世界において、いかに独特のものであったかが理解できるであろう。そしてこの考え方は、「内なる規範」と「外なる規範」というかたちで、その後の西欧文明の方向を決定した。いわば「法」はあくまでも外的規範であって、その人の内心に立ち入ることは許されない、という原則が確立していなければ、「信教の自由」もまた「言論の自由」も、あり得ないからである。
非人情でいられないのか、いられないのかぁ……。と「関係」のなかで萎えてゆく夏目漱石のよう。インドで知恵に二つの考え方があるのに似ている。
本格的に聖書を読み始めるにはあと10年以上かかりそうですが、わたしはパラレルで学んでいくほうが頭に入りやすいみたい。
それにしても聖書は冊数が多いなぁ。もうちょっと大喜利っぽさがあると読めるんだけどなぁ。これはインド病か。
▼古本が内容に対して安すぎる。