うちこのヨガ日記

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契約の概念と封建社会(山本七平「聖書の常識」より)


多くの人にはすでに身についている感覚なのかもしれませんが、わたしは最近になってやっと聖書の世界に触れたので、いまさらながら、なるほど思うことばかり。今日書くのは、「自分を縛る自分以外のもの」について。わたしがこれまでモヤモヤしてきたことは、もしかたら「契約」がなかったから? と思いました。契約の相手が神なのか人なのかはさておき、とにかく契約がない。


(モヤモヤの例)

  • 秀吉が草履をあたためることが無私の行為かというと違う気がするのに、だったらラブかというとそうでもなく、でも「うっわー。あざとーい」という感じでもなく(なんなら魂から湧いた行為・美談のように)語られること
  • 親切をされたことで段取りを変えなければならない都合が発生した際に、困惑を表明できないうえに「よかれと思っやった」といわれること

「頼んでないのにやってるね」と思えばいい話なのですが、なぜそう思えないかというと、契約の概念がないからかもしれない。そんなことを、また山本七平著「日本人は知らなすぎる 聖書の常識」を読みながらいろいろ考えました。




「頼んでないのにやってるね」に対して、聖典の約束事として「頼んでいようがいまいが、人がなにかをしてくれたら感謝の言葉を述べておけ」となっていれば「とりあえず言う」と割り切れる。思ってなくても言うもんだと思える。望まないことでも、相手が親切を売りたいという欲求を受け入れるということを割り切れる。
というようなことを、説明してくれる箇所がありました。 

<127ページ「律法は現代も生きている」より>
(律法/トーラー、ユダヤ人の慣習を述べた後)
批判をするにしと尊守するにしろ、彼らにつねに典拠がはっきりしており、この点、「世の中とはそういうものだ」式の、日本的な無典拠の慣習絶対とは基本的に違う。
 したがって彼らは、自分たちが、外部の人間とどのように規範が違うかも明確に把握しており、日本のように、「世界中どこへ行っても日本と同じだ」といった錯覚を抱くことはない。

最後の一行の指摘に尽きる。最近は不思議な雰囲気の場面で「ここ、笑うとこですか?」というような言葉もアリな雰囲気になったのでよいのだけど、昔はその雰囲気も限られた信頼感の中でしか無理だっただろうと思う。「ここは、こうしておくもんです」というのを少しオープンにできるようになっただけ、現代は生きやすいかも。




以下を読んだら、かなりスッキリしました。

<106ページ「聖書の『契約』とは?」より>
「契約」という概念が日本人にあるかないかはよく問題になる。だが、この議論にはしばしば概念の混同があるように思われる。契約には四種類あり、通常これを、

  1. 上下契約
  2. 相互(対等)契約
  3. 履行契約
  4. 保護契約

 とするが、日本人にないのはおそらく「上下契約」で、他の契約概念は、定義が明確ではなく漠然とはしていても、日本人にもあると思われるからである。
 たとえば日本にも「忠臣」がおり、「忠臣蔵」もある。しかし当時の家臣は殿様との間に契約を結んでいたわけでなく、またこの契約を完全に履行するのが「忠」がという発想があったわけではない。これは西欧の騎士が君主と契約を結んでいたのと大きな違いである。もちろん戦時中にも、天皇との間の契約を死んでも絶対に守るといった発想はない。
 この「上下契約」は、実は聖書の中の基本的な考え方であり、絶対者なる神との契約を絶対に守ることが「信仰(フェイス)」すなわち「神への忠誠(フェイス)」なのである。したがってその意味は日本人のいう「信仰」「信心」といった言葉と非常に違う。そして「神との上下契約」という考え方が基となっているので、聖書の宗教は「契約宗教」と呼ばれ、それが明確に出ているのが、俗に「モーセ十誡」といわれる「シナイ契約」である。


(中略)



 新約の契約「ディアテーケー」は、「遺言」という意味もある。これは大変おもしろい言葉で、「遺言」とは死者と生者との一方的な契約であり、したがって、生者が相互契約でこれをどうにかすることはできない点で、まさに絶対的契約なのである。そしてこの契約を宗教化し絶対化するという発想は、聖書にのみある発想である。

この本が出た時代に比べると、いまはかなり契約の条項が細かい社会になったと思うけど、なにかのサービス利用の規約にしても「要するにグダグダいうなよ」というのを小さい文字の軍団で感じろ、というのが運用の現状。戦争の時代の「殉死」という行為も、追いかけているのであって「上下契約」ではない。「なんとなく履行契約」というほうが近いのかもしれない。




世界規模のサッカーの大会の国歌斉唱映像でモヤモヤする感じについても、以下を読んで少しスッキリした。

<112ページ「ヨーロッパ人にとっての宣誓」より>
 (「宣誓」のありかたについて記述された後)
 こういう意味でも、その契約の最古のものは何かといえば、やはり「シナイ契約」すなわちモーセ十誡ということになろう。モーセ十誡が、二人称単数命令形になっていることに注目しなければならない。
 単数・複数は日本語にないので、たとえば「なんじ殺すなかれ」といわれると、われわれはなんとなく「おまえたちは殺してはいけないよ」というふうに受け取る。しかし、これはひとりひとりにいわれており、各人と神との一対一の契約なのである。
 すなわち「なんじは」であって、決して「なんじらは」ではない。おのおのがそれを守る、つまり神との間の契約を各人が守ることが先で、その結果、お互いに殺し合わないという相互の関係が成立する。聖書の契約の特徴として、まずこの点を明確に把握しておかなくてはならない。
 というのは日本にはこのようなかたちでの契約という考え方がないからである。たとえば「姦淫するなかれ」という上下契約がある。だが強姦以外の姦淫は必ず相互の「話し合い」で成立する。日本では「話し合い」が絶対だから、たとえば、高校生売春などの場合、これをとがめられた女子高生が「二人が話し合いでやったこと、あなたは関係ないでしょ。口出ししないで」といえば、教師も親も返事ができず、「民主主義だから仕方がない」などという。
 しかし、これは民主主義とは関係のない、日本的な「話し合い絶対主義」、いわば上下契約なき世界の論理なのである。

「日本代表はなんで○○しないんだ」と言われたときに、海外でプレーする人はどう感じるんだろう。よく複数人のまとまりに対して「いかがなものか」という人がいるけど、「で、このなかの誰にケシカランと言いたいの?」と尋ねたら怒られそう。まえに「悪口の受け止めかた」に書いた「みんなそういってる」は、結局は宣誓(従属)を求められているのだと思う。




インドは王様よりもリシのほうが尊い存在で、そういう身分設定があの学問の歴史を作った思うのだけど、聖書のこの世界も似ている。

<117ページ「王といえども契約を守る」より>
ナタン契約は、きわめて重要な要素を含んでいる。それによってイスラエルには絶対王制は成立せず、王といえども契約が絶対であり、預言者が王を糾弾しうるその根拠は、契約絶対で王絶対ではないという考え方があったからである。

日本の状況のほうが特殊なんですよね。「義」をベースにした決定や議論がされにくく、疑心暗鬼から陰謀論が囁かれ、精神的指導者がいない。インドではラムデブさんがいまそういう役割を果たしているけど、この存在感を日本人に喩えようと思っても、なかなかむずかしい。それに近い存在感のあることをしているのは池上さんかもしれない。いま日本でその役を担えるのはジャーナリストなのかな。伝えながら引っ張るって、すごくヘンだけど、マスコミの体質を思うと、日本ではそのスタイルがハマる。
というか、その理由になる引用を続けます。



<138ページ「名君も宗教的評価は違っている」より>
 唯一神に対するイスラエルの宗教を純粋かつ忠実に生きるかどうか ── この点でしか、預言者は王を評価しなかった。
 この伝統はいまも欧米に非常に強い。後代はニクソンベトナム戦争終結させた政治力のある有能な政治家を評価し、彼を辞任に追い込んだことが、アメリカ衰退の最大の原因とみるかもしれない。これはオムリ王朝への評価としてもいえる。日本にはこの伝統がないが、その理由は、「律法絶対」の系統にある「法」絶対がないからであろう。

「忠実」である対象をもたずに生きてきた日本人をひっぱっていくには、時代時代でなにを信じてきたかを分解できる人でないと無理な気がする。日本はカリスマ性のほとんどはマスコミが作るので、実際あるのかないのかよくわからないし。



<139ページ「繁栄と社会的正義のズレ」より>
王たちのほうは、もっぱら自国の発展と繁栄に目がいくわけだが、預言者たちはむしと社会的正義に目を向ける。つまり、どんなに国が栄えても、アモスが糾弾したような状態、前に引用したアモスの言葉にみられるように、貧富がひどくなり、同胞が同胞に圧迫されるような状態は「義」なる状態とはいえないと彼らは考える。

同胞が同胞を圧迫しあいっこしてますね、いま。




山本七平さんの本は、この時代に置き換えたら統制されそうな指摘ばかりに見えるので、いまこそ読みたい感じ。
「わけもない不安」から一歩進んだ、「考えたうえでの不安」を抱えている人には、かなり心の支えになるはずです。
それぞれがそれぞれの場所で読んで考えて、共有できる。読書×インターネットのすばらしさは、こういう教材を使って感じていくのがよいなと、最近つくづく思います。


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