うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

自分に「アウェイ感」という負荷をかける


今年最後の地方クラスを終えて帰ってきました。
いつの間にかブログだけの世界からリアルに外へ出るようになって、何年かが過ぎました。
東京は今年、場所の変更と箱に合わせたアレンジが必要になりました。昨年末で燕スタジオがクローズしたので、アーサナの稽古場を高田馬場へ移しました。空き物件の民家で開催していた読書会は、その物件への入居者が決まったので新宿区から三軒茶屋へ移しました。いずれも3年前くらい前のように感じますが、去年の今ごろはまだ、「あの場所はどうか、この場所はどうか…」と考えていたのでした。


こういうしんどいことはたまにやると「しんどい」という印象だけが強く残ってしまうので、変化することをコンスタントに続けるべく、今年は慣れはじめていた神戸の会場変更をしたり、広島と札幌へ初めて行ってみたり、「さらにアウェイな状況」を設定しました。
移動も変更も疲れるけど、人は変化を求めつつ嫌いもする。中年のわたしは「変化を嫌う」という癖がつくことを少し怖がるくらいじゃないと。ここ数年「依存は孤独の種まき」と考えるのと同じように「変化を嫌うことは傲慢のはじまり」と考えているところがあって、そのようにしています。


こんなふうに考えるようになったきっかけはいくつもあったのですが、夏目漱石の「坑夫」の影響が大きいです。
今年はこの本の読書会をしたので何度も読んだのですが、そのたびに気分が「思春期中年」になりました。変化を強いられているけど、モジモジしてたらやさしい人が気づいてくれて、なんとかしてくれないかしら…みたいな幼稚な思考をするあの怠惰のタネが解凍されて、はずかしくなる。
わたしはインドで毎日哲学のクラスを受けていた頃、それはおおむね問答形式だったのですが、この「思春期中年」のメンタルを先生からバッサリやられ、これは日本人的な思考のせいだと思っていたらほかの国の人もさらにバッサリやられているという場面に何度も遭遇し、今でもあのときの「アウェイ感」「ゾクゾク感」を大切にしています。お金で買えない価値。プライスレス。


でもわたしが今でも「お金で買えない価値」だったと思っていることは、日本で同じことをやると「受講料を返せ」「詐欺」と言い出す人がいるであろう光景。そしてこういうことに「詐欺」といえる環境もまた、お金で買えない価値。プライスレス。
いずれも人間の創り出した概念とルールありきの世界。
大きな国の選挙を見ていると、こういうことがまさに平たく可視化されているように見えて、混沌こそまさに世界なのだ、そしてそれを創り出したのはブラフマンなのだと定義したインド人はまったくすごいものだと感じます。この混沌の隙に、通貨の概念を変えちゃえ! てなことも思いつくよねそりゃ(参考)。混沌に対するあの圧倒的なポジティブさは、リアリストの極みかも。


わたしは10年くらい前に、ヨガ教室に体験で来た人から「痩せますか」と気軽な質問を受けたインド人のヨガの先生が、「あなたはヨガをやりたくなったら、痩せてから来てね。そうしないと、ひざを痛めるから」と、返答しているのを見たことがあります。
このときから「ケガが発生するときの心のメカニズム」を意識するようになりました。実は体重のことだけを言っているのではない、というのが先生の話しかたでわかったから。




「痩せるなら、アーサナをやってみても、いいかもね」
「エグゼクティブ風の演出に役立つなら、瞑想をしてやってもいいかもな」

いうなればこのような文法、このような順番で思考をするお客様至上主義世界の消費者マインドが日本人にあることを、インド人の先生はわかっている。「させていただく」と口では言いながら、内実は「やってやる」という筋立てになっていることを見抜いています。
自分は相手に受け入れられると感じた瞬間から、「させていただく」が少しずつ「やってやる」に変化してゆく過程は、恋愛と似ているかもしれません。自分の中にもあるこの思考プロセスに気づくと、好きで続けたいことほど「アウェイ感」なしには怖くてやっていかれなくなります。
わたしは過去の恋愛の失敗を、なぜか、どういうわけか、ヨガにだけは生かせている。もしかしたら自分はこの仕事に向いているのかもしれない思うのは、こんなときです。これが最後の恋なのか(笑)。



 いつも新鮮な緊張感



これはお金で買えるなら買いたいもの、もらえるものならもらいたいものナンバー・ワン。
ヨガにおいては、サンタクロースの出る幕なしです。