うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

甘えの構造 土居健郎 著


友人が「いま読むとたくさん感じることがあるはず」と言って貸してくれました。線がたくさん引いてある。同じ部分にうなずく。
初版は1971年で、言語の存在と背後の心理を分解し、日本人の精神特有の構造を紐解く内容でした。
この本を貸してくれた友人は海外を行ったり来たりする仕事をしていた時期があり、わたしがしばらく外国人と生活をして帰国してからいろいろ悶々としているのを見て、「どう? いま読むと、響くでしょう?」と。
日本人的な心のはたらきとして、その主軸はタイトルの通り「甘え」に置かれています。が、この本のすごいところは、「言語との関係」を広範囲に掘り下げていること。



根拠として、フロイトとラパポートの言葉を引用していました。

  • 自我内の、通常は無意識の内的過程が意識に到達することがあるのは言語機能による(フロイド)
  • 種々の動機の交互作用と、同時にいくつかの動機を満足させる対象を求めることにおいて一度起きた記憶の連鎖、概念の所属性および予期は、心理的発達の進歩とともに失われることはない。むしろそれらはほぼ同じ状態で再三繰返し起きることによって、構造化され、思考過程の用に共される固定した道具、ほとんど安定した装置となる。(ラパポート)

フロイドは明確に無意識と言語機能のパイプを示し、ラパポートの「思考過程の用に共される固定した道具、ほとんど安定した装置」は言語かその直接の前段階であろう。と解説されています。




言語の分解は、これらの表現があげられていました。要約します。

■「甘え」にまつわる言葉
甘える、甘んずる、すねる、ひがむ、ひねくれる、うらむ、ひてくされる、やけくそになる、たのむ、とりいる、こだわる、気がね、わだかまり、てれる、すまない


■「気」にまつわる言葉
気が利く、気が付く、気を失う、気が進む、気が咎め


■精神的機能を現わす「あたま」「こころ」「はら」「顔」にまつわる言葉

  • 「あたま」対人関係における態度

  ⇒あたまが下がる、あたまが高い

  • 「こころ」物に感ずる力ないしそれによって感ずるところ

  ⇒気おくれ/心おくれ、気くばり/心くばり、気立て/心立て

  • 「こころ」で、気とは併用できない、もっと幅のある概念

  ⇒心が深い・浅い、心の奥

  • 「はら」経験の蓄積、経験の集大成としての自己、容易にその中を人の眼に見せないもの

  ⇒はらができてる、はらを探る、はらが見えすいている、はらが立つ、はら黒い

  • 「顔」は文字通り人に見せる表面の意味しか持たないのが大変興味深い。

これらの言葉は、とても英語で説明しにくい。外国連中は「シャイ」のひと言で済ますのだけど、シャイにもいろんなシャイがあるのだよ。ということを言うと「イエース。知ってるよ。ホンネとタテマエだろ」と言われたりして、それもあるけどそれだけじゃなくて、もっと策略家なの! というのを話すとさらに「知ってるよ」ふうのことを返される。話しきれるわけもなくグッタリする。
なんとなく、イスラエル人はこの辺のことをわかっていそうな気がした(体感。証明不可)。




この本の「気の概念」のなかで、この書が書かれた時代には「ノイローゼ気味」「本物のノイローゼ」といふうにドイツ語が使われているが(いたが)以下の概念を有することは誇ってよいと思っているという記述があり、なるほどと思いました。

  • 気の病:気の快楽志向性が妨げられ、気がままならぬ状態。気の働きには主観的自由の意識が伴うが、「気の病」の場合にはこの意識が欠落する。
  • 気ちがい:気の快楽志向性そのものに狂いが生じた場合。

たしかに、「快楽志向性」の状態を主眼にしたときは、状態としてみることができます。自分にも物理的にあることだと思える。「心の病」とはいっても「心ちがい」とはいわない。西洋医学の用語や翻訳概念を取り入れることによって、これはエネルギーの出かたや状態の違いなんだという正体からどんどん遠ざかってしまうように感じます。



「気がすまない」は一つのトピックになっており、ここまでの部分が気になった(おお、気だ)人は必読。「気がすまない」からユーモアが解せないという逆説的な心境が分解されています。




この本にある主張は「甘え」がいけないというわけではなく、古くからあるものとして丁寧に紐解かれ、第四章 「甘え」の病理 ─「対人恐怖」で、以下のことを「想像に過ぎないが」という言葉とともに指摘されています。

  • 今日の社会の人間関係は昔に比べて容易に人を甘えさせないのではなかろうか。
  • 社会が複雑になって、どうやったらうまく甘えられるかそのルールの発見が困難となっている。
  • 社会が個人の恥じらいを受けつけなくなった。
  • 対人恐怖は「周囲に対する恥の意識」から「周囲に対するおびえの意識」へ変化(視線恐怖・体臭恐怖が増加)。

どうして同じ状況でも大丈夫だったりそうでなかったりするのか。日本における「甘え」という土着文化のような精神が、自分の中にもたくさんあることを確認した後にこの流れで説明されると、とても身に沁みるのです。
1971年の本だから、この時代の大人の次世代がわたしたち。甘えさせてもらえない苦しみを抱えた人に育てられた世代って、カルマ2周目か3周目なんです。家庭というのはもっとも身近な組織単位だけど、もうこのスパイラルは自分のところで止めよう、と思わないと流される。苦しみがとまらない。




同じ章の中でどんどん煮詰められて、そのあとこうなります。

  • 人間は何ものかに所属するという経験を持たない限り、人間らしく存在することができない。(第四章 「甘え」の病理 自分がない より)

所属するという「経験」です。所属した実体を内外から見つめる「経験」が大切なのでしょう。家庭が無理なら、あそこ、でなければ、ここ。現代はこれをさもネットが代用してくれるような感覚に陥りがちだけど、それが「経験」として身に入るかどうか。著者さんはこの「経験」を「人間存在の一番根底に潜む法則」と言及しています。



グサグサきたのはここまで。


以下は、なるほどなぁというか、淡々と説明されてこの国を知る感じ。

甘えという言葉を依存症というより抽象的な言葉におきかえると、人情は依存症を歓迎し、義理は人々を依存症的な関係に縛るというころもできる。義理人情が支配的なモラルであった日本の社会はかくして甘えの瀰漫(びまん)した世界であったといって過言ではないのである。
(第二章 「甘え」の世界 義理と人情 より)

この置き換えをしてみたあとで、「なにに」ということを具体化するのはとても大切だと感じました。



敗戦によって天皇制と家族制度の思想的しめつけが撤去されたことが直接には個人の確立には導かず、むしろ甘えの氾濫を来たして精神的社会混乱の原因となっている。
(第一章 「甘え」の着想 より)

わたしは「家族制度の思想的しめつけ」は、意外と残っていると思っています。この部分で著者さんは、違う学問立場の中村元先生の「日本人の思惟方法」の結論との一致を論じています。




中国との違いについても興味深い言及がありました。

中国人が西洋文化に容易に好奇心さえ起こさなかったのは、彼らが自国の文化に絶大な誇りを持っていたからであろう。このことは、中国人の社会が日本人の社会とはちがって、およそ甘えの世界とは縁遠いものであることを示している。日本人は上述してきたように元来外の動きに敏感であり、少しでも外が己よりすぐれていると見れば、直ちに外にとりいりとりこもうとするので、同じように西洋文化接触しながら、中国人とは全く異る結果がもたらされたと考えられるのである。
(第二章 「甘え」の世界 同一化と摂取 より)

「とりいり」「とりこむ」というのはまさに。日本はオープンで潔いとか言ってると馬鹿を見る社会なんだけど、それが精神上では美徳になっているという、山本七平さんの指摘する矛盾に近いものを感じます。(参考「日本人とユダヤ人イザヤ・ベンダサン 著)




「謝罪」と「甘え」の構造についての指摘には、このうえないハラオチ感がありました。

恥の感覚が発達している日本で、罪の文化と称される西洋よりも、人々がはるかに謝罪に熱心であるということは大変興味深い事実である。ただにすんでしまったことをすまないといって謝罪するだけではない。これからやることについても日本人はとかく自分の力不足を強調しがちであるが、これは前以てする謝罪すなわち弁解であるといえるだろう。
(第二章 「甘え」の世界 罪と恥 より)

恥の感覚の発達と同じではない理由で、「力不足を強調」しないとクロージングできない場面は増えているように思う。高度経済成長期の「お客様は神様」の精神論だけが残って世はデフレし、お詫びのコストの代償として。「完全か恥か」の二元論化しているように感じます。




関連性の深い部分から、もうひとつ。

(ニュー・レフトの活動家の精神の説明の流れから、活動家が被害者を実際に助けるために手を打つかというとそうではなく、被害者と同一化しようとすることについて)
彼らはまさに被害者と同一化することによって自己の固有の存在を否定し、またそれ故に罪悪感をも止揚してしまうと考えられるからである。かくして彼らは自らも被害者となって、被害者を見過す人々を詛(のろ)ったり、あるいはもっと積極的に加害者を攻撃するようになる。この際出発点の自己否定に無理があればあるだけ、そこから結果する行動は戦闘的暴力的とならざるを得ないのである。


(中略)


私は加害者を攻撃し非難することがすべて間違っているといっているのではない。悪は責められるべきである。しかしもしこの際、それによって自己自身の罪悪感がぶっとぶようならば問題である。このような罪悪感は甘えに発するもので、それこそ甘い。それは前項の終りにのべたような道徳の基礎となる罪悪感ではない。したがってまた、そのような動機を内に秘めてなされる悪の攻撃は決して効果的なものとはなり得ず、却って悪の蔓延を助けるだけだと考えられるのである。
(第五章 「甘え」と現代社会 連帯感・罪悪感・被害者意識 より)

原発に頼る近代文明のエネルギーを享受しているという罪悪感があったら、「天罰」という発言を原発のない地域にいながらバッシングする気にはなれないんじゃないかな。と思っていたモヤモヤを分解された。




最後に、ここは救いだと思っているところ。

日本の社会ではわがままは原則として許さないが、気ままはわがままにならない限り許すということは面白いことである。このことは恐らく次のようなことを暗示しているのかもしれない。甘えは本質的に全く対称依存的であり、主客合一を願う動きである。したがって甘えをむき出しにしたわがままは、他者に依存すると同時に他者を支配しようとする。しかし甘えを気の動きとしてとらえるならば、それをある程度まで客観視することができ、その限りにおいて主体の立場を確保し、それとともに他者との距離を維持することも可能となる。甘えの世界である日本の社会で特殊な気の概念が発達したのは、このような事情に由来するのではないかと考えられるのである。
(第二章 「甘え」の論理 気の概念 より)

特に外国人に対して、「自由でいいわよねぇ〜」というトーン。ふだん自由という言葉をあまり使わなくて済んでいる分、けっこうマインドは自由なはずなんだけど、こういうときに自由という言葉を使えること。この国に帰る人ではないと思うと、こういう気分になれるおおらかさ。海外旅行をする人が増えて、このおおらかさが日本人同士の中でじわじわ沁みてくるとよいねぇ。




インドのアーユルヴェーダでは「甘み」はカパ(カファ)を増やすものとして扱われていますが、この本を読んでからというもの、言語のドーシャを意識するようになり、頭が疲れます。この状態を乗り越えたら、もっと上手に日本語が扱えるようになるかしら。


日本の人間社会で生きていくうえで、スタンダードな心の地図を得たような気持ちになる本でした。