先日はじめてヨガクラスでお会いした方から「近頃ブログの末尾にクラス案内のリンクがないので、もう新たに来る人は受け付けない感じなのかと思っていた。古い記事をたどってクラスを見つけて来た」と言われたのですが、「告知しない=ご新規さんおことわり」なんてことは、まったくありません。もちろんウェルカムです。というか、わたしには「新たに」という概念がないです。
同じ人間でも、環境や社会、帰属する組織が変われば判断の優先順位が変わります。なのですべての人とその都度「ゆきずりの関係」と考えています。
「告知や宣伝に積極的になれない理由」はずっと漠然とあったのですが、これまで言語化できていなかった根っこの部分が先日観た映画にあった説明でスッキリ腹オチしました。
「聖なる呼吸 ヨガのルーツに出会う旅」という映画のなかで、アイアンガー先生が「現代ヨガのように普及する前は、インド人にとってヨガは、社会や家庭との関係に問題を抱える人がやるものだと思われていた」というようなことを話されていて、ここなのです。わたしも実際、そうではないかと。
わたしはずっとそんな感覚で、もう10年以上ヨガをやっているところがあるのです。
やめられたらいいのに、まともな人間ではないからやめられないという感じでやっているのです。このブログでもたまに書いてきたことの背景が、まさにそういう感じでした。
- 救われなかったら、どうなっていたの
- 「やらない理由」だけをカットしていく
- グッドではなく、ベター。マイナスをゼロにできればいい、くらいにしか思っていない
- いいことをしていると思うことのこわさ
- 自尊心をひっこめるためにヨガをしている
- よろめいても大丈夫、と思える生活のためにヨガをしている
そして先日紹介した「壇蜜日記3」に、自著の宣伝行為に腰が重い理由を語る流れでこんな記述がありました。
見所もどんな人に買って欲しいかも、言えば対象を限定しているみたいで考えたくはない。
(2016/2/27の日記)
これ。これなのです。はげしくうなずきました。
宣伝や告知の言葉というのは、効果効率の精度を上げようとすればするほど「自分が社会的によいことをしていると思いたい人」にすり寄っていくことを避けられない側面があります。そうすると、わたしの心根の居心地が悪い感じになる。
わたしはここで「ヨガはいいものだよ」と書いてはいるけれど、社会的によいことをしていると思うことにためらいのない人や、わりと容易に外から見た自分にOKを出せる人には、あまり必要のないものと思っているフシがあるんですよね…。わたしが練習を継続するときの燃料は「道徳観や倫理観や法律では裁けない領域の、得体の知れない罪悪感や後ろめたさ」だから。
わたしにはいつも「人生、楽しんだ者勝ち」と思えないなにかがあって、アイアンガー先生の言葉が妙に沁みた理由はそこにあり、「ヨガはいいものだ。だから開かれた」とは一筋縄ではいかないです。
まぁ一筋縄になったら、カルトなのだけどね。