うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

正しい答えのない世界を生きるための 「死」の文学入門 内藤理恵子 著

なんのきっかけだか忘れてしまったのですが、このnote記事を見てたどり着きました。

 

夏目漱石の『こころ』に登場する「K」の人格の見かたに頷くところがたくさんあり、本を読みたくなりました。できるだけ同時に参加したい気持ちで、カフカの『変身』、ゴーゴリの『外套』も読みました。


いまはこの本で知ったショーペンハウエルの『幸福について』を読んでいます。健康に生きるために運動・睡眠・芸術の重要性を説いているらしくて。
わたしはショーペンハウエルの『自殺について』に収められている『余興としての小対話篇』を読んだ時に、深刻さの弱点を見逃さない視点に驚き、とことん考える・頭を使うというのはこういうものかと感銘を受けた記憶があります。

 

この本はところどころ、意外な展開がクスクス笑えます。

筋肉話の流れから三島由紀夫のエピソードにつながるところは特にユニークで、ボディビルに打ち込む理由を俳優・仲代達矢氏に訊かれて「僕は本当に切腹して死ぬ時に、脂身が出ないように、腹だけを筋肉にしているんだ」と答えたエピソードが紹介されていました。(第1章 筋トレするデカダン 三島由紀夫の不思議 より)

 

わたしは生き死にそのものに対して美学を持とうとすると、人生そのものが無観客の芸術劇場のようになってしまうと思うのだけど、 “無観客であること” について三島由紀夫はどこまで意識していたのか、いつも疑問で、三島由紀夫に対する永遠の謎というか、ツッコミです。無観客とか絶対無理でしょ、というくらいの自意識を感じて。
なのでこの本にあるショーペンハウエルから三島由紀夫への話の展開がとても興味深く、その視点を楽しみました。

 

 

この本は2020年10月に出版されているので、コロナ禍での著者の言葉をリアルタイム感覚で読むことができます。
特にカフカの『変身』については、まさにそれ!と思っていることが書かれていました。

 現在(2020年10月)のコロナ禍において、感染した人も感染を免れている人も、どちらも「知の枠組み」を変えていく必要に迫られています。
 それはなにも、私たちが虫のようなものに変態するべきだという話ではなくて、これまでのアイデンティティ、健康という概念、”人間らしい” とされる日常生活、倫理観などを別の枠組みに組み替えていかなければ、この先の時代を生きていけないのではないかということなのです。
(第7章 芸術的感性は人間らしさの証明ではない より)

健康の概念とアイデンティティの関係性について、この2年弱の間にわたしは何度も考えました。
ワクチン配布の過程では優先して守るべき存在の話が多く見られました。普段では持ち上がってこないトピックが可視化された、ついに来たかという感じがしました。

 

アイデンティティの問題については、この本の第4章でも触れられていました。

 子が親の価値観(階級的、民族的、宗教的)を継承していた時代には、職業選択など個人としての自由は制限されていましたが、アイデンティティが確立することは現代人より容易なことでした。対して、近代以降はそれが難しくなっています。歯車の一つにされてしまうような社会や組織の中で、人は取り替え可能なパーツとして働かねばならず、同時に人間的魅力を持ち、周囲に愛されることも求められる。
(第4章 ドストエフスキーの『分身』 より)

わたしは今年(2021年)、働き盛り世代の "ワクチン予約のチケットぴあ状態" を見ながら、まさに上記のようなことを考えていました。
平等をベースにした考えは料金(接種が無料)だけで、特に都心部でのあの予約争奪戦は、存在価値の自己判断と運を天秤にかけたゲームを見ているようでした。
職業・働きかた・所属先・コネクション・財力・心理的可処分時間・ネットを使いこなす力・情報の取捨選択能力・のんびり構える胆力など、複合的な要素がひとかたまりになって漠然と詰めてくる。

そこへ意識を向けると「ところで自分はここまでして生き残ろうとしたいんだっけ?」という気分にすらなる。そんなに深刻に生きてない。

 

この状況がおもしろいと言ったら不謹慎かもしれませんが、わたしにはまるで坂口安吾の『白痴』の世界のように見えて、防空壕に入れてもらうに値する ”肉体の利用価値” を問うような、唐突なえげつなさがあったと思っています。
ここまで体を張るなら打たせてやるよと言わんばかりのシステムも、滑稽だなぁと思いました。生きることにも執着が必要かのように思わせるなんて、地獄のデザインとして新しすぎる。

 


このように、存在意義の問いに敏感になる社会に身を置きながら、たまたまこの本に出会い、そして同時進行でカフカの『変身』を読み、わたしは著者の語る以下の部分に深く頷きました。

『変身』における悪は、確固たるキャラクター(サタン)としてではなく、人の心に巣食うという形、たとえばグレーゴルの家族の残酷な性質として顔を覗かせることになります。それだけではありません、解釈次第では、健康であり、かつ金銭を稼げる者(生産性の高い人間)でなければ存在意義が認められない、異質な者は排除される社会や経済システムにサタンが巣食っていると示唆しているのかもしれません。
(終章 文学史の中のサタン より)

実際、わたしは『変身』を、上記にある「解釈次第では〜」のような読み方をしました。
自分が仕事を辞めたら家族にとっては無用の存在であることを実感したり、会社を辞めたら書類のサインの価値が下がるかのような保証人欄とか、自分はグレーゴルと同じだと感じやすいシステムの中で生きています。

 

この本はタイトルに文学入門とあるとおり、多くの小説が解説・紹介されていて、特に海外の作品は知らないものばかりでしたが、この読書をきっかけにゴーゴリロシア文学)のおもしろさを知るなどの新たな発見がありました。
こういう解説があると、聖書の引用や暗示の部分がピンとこない海外文学にも、別の角度から撒き餌につられて近づいていけます。
コラム集のように読めて、シリアスではない本でした。