感情で事実を脚色したり、真実へ迫ることなく感情でものごとを曲げようとすることに対する指摘が鋭い。なかでも「泣いた赤鬼」「タマちゃん」への指摘がおもしろかったのですが、「泣いた赤鬼」にはわたしも大人になってからいろいろ思うことがあったので、まずはそこを紹介します。
二十歳を過ぎてから同じ作品を読んだのだが、私は泣けないばかりか腹が立った。赤鬼が、青鬼を犠牲にしてまで人間と仲良くしたいと思ったことが許せない気がした。鬼は鬼どうし、充実したらいいんじゃないかと思ったのである。
鬼に動物をそのまま準えてはおかしいが、わたしは今の動物愛護の在り方にそれと同じような感慨を抱く。それによって人間どうしの問題をごまかしてはいけない、と。(P73)
この流れで「泣いた赤鬼」がくるか、と思ったのですが、この「同類族を犠牲にして人間と仲良くしたい」ことに、なぬ!という気持ちがよくわかる。わたしはそれよりも「鬼って、怖い役やるために人間が作ったものじゃないの? そっちからこっちに来たいという設定は、いくらなんでもナシでしょー。どこまでいい身分設定なんだよ人間」と思ったことがある。ヤンキーを「あいつは乱暴だけど、性根はいいやつだ」というのは人間同士だからまあ、なんとかアリなのであって……。
このモヤモヤについて「鬼は鬼どうし、充実したらいいんじゃないか」という大人の意見を読むのがおもしろかった。
「年賀欠礼」への指摘も容赦ない。
年賀欠礼の主旨はといえば、自分のところはこんなに不幸なのだから、たとえ正月と雖(いえど)もめでたいなどとは行ってほしくないし自分もあなたの正月を愛でる気はない。だから先手を打ってお知らせしておく、ということだろう。好意的に考えれば不幸な家に「おめでとう」と言う失敗をあなたに犯させたくないための配慮、ということだろうが、些か人間の了見を狭く見積もってはいないだろうか? しかも「喪中十三ヶ月」ということは、十二月に亡くなった場合にはその報せが間に合わず、「おめでとう」と言われてしまったりするから、もう一つの正月でやり直すということだろう。(P144)
インド人の知人が喪中で断食に入って痩せていきつつも明るく振る舞っている様子を見たとき、日本の年賀欠礼のポーズっぽさが気になったことがあった。この「好意的に考えれば〜」以降がまったく好意的じゃないのが面白いところなのだけど、ほんとうにそうだと思う。わざわざルールを作って失敗する人が増える機会を増やして、そこに親切心を被せるようなプロセスを設定しているかと思うと、妙な風潮だ。
このほかにも、こんな指摘がありました。
- 周囲の冷淡さを非難する前に、自分が心から「助けて」と言ったかどうか、そちらのほうを先に気にすべきだと思う。(P33)
- 殺生しなくては生きていけない自分に「正義」なんてものを被せるから、とてつもない殺生の拡大再生産になる。(P83)
「正義」とか「せっかく」という言葉はとても怖い。暴力と隣り合わせの感情なんですよね。
この著者さんは芥川賞作家なのですが、こんな話があったのもおもしろかった。
例えば私が芥川賞をいただいたりすると、そういえば、と、自分でも子供の頃に父親に枕元で読み聞かせてもらった本のことなど思い出したりするし、また高校生の頃に書いた文章など捜しだして誉める人まで現れる。しかしもし私が、泥棒でもして捕まれば、今度は別な物語に沿った材料が探され、「そういえばあいつは手癖が悪かった」とか「昔、店の前に佇んでいたときの目つきがおかしいと思ったけど、やっぱりそういうことだったのか」という人も必ず現れるだろう。(P176)
「実際はそんなことはありえないのに、人は自分のことも他人のことも人柄に一貫性を持たせたがる」という教え。「やっぱり」というのもまた怖い、暴力と隣り合わせの感情なんですよね。ここでの「目つきがおかしいと思ったけど、やっぱり」という例えが、ほんとうにありそうで絶妙です。
オウム真理教の見かたも実に鋭い。
オウムへ走った人が惑溺したその魅力は、おそらく宗教のもつ肉体性だろうと思う。つまり自分の肉体と向き合い、ある限界を超えようとする行為が、宗教には必ずある。そこで人は、ある種の恍惚へと導かれるのである。その状態が「解脱」と言われたり「祓い清められた」状態とされたり「他力」の風が吹いたと解放されたりする。言葉は違っても、いずれ論理や言葉が届かない状態のことである。そうした体験が少年時代にあれば、彼らもあれほどあっさりオウムの虜にはならなかったのではないかと思う。オウムには実に周到なシステムがあった。五体投地・坐禅・唱え文句・さらに水中クンバカなど、二重三重に恍惚へと導く方法が用意されていたのである。
自分の体が恍惚を生むということを知らなかった青年たちが、いわばそのことに目覚めて抜けだせなくなったのがオウムだったのではないだろうか?(P114)
本当にそうだと思います。運動不足の背景が圧倒的に追い風だった。わたしは30歳を過ぎてからヨガをはじめたのだけど、ハマった理由は、高校時代にソフトボールでショートバウンドが見なくても捕れるようになったときと同じような、恐怖を乗り越える無意識の範囲にある能力を開発された気がしたから。ヨガを続けていくとき、「ああ、あのときの、あの感じ」と思う引用元があるのとないのとでは、状況は別もの。
オウムのシステムについては、かなりしっかりしたカリキュラムで気合が入っていたと思うし、ヨーガ的なメソッドで「グル、絶対」の行動がテロに発展するというのは、感情的に「ヨガ怪しい」と言ってくれる人がいないと、また発生しうる。これは慣性の法則みたいなもんで、物理的にありうる気がする。なので、わたしはヨガ関係者が「オウムだけが特殊だった」「オウムのせいで」という言い方をしたい気持ちは重々わかるのだが、そういうことを言いたくなるマインドもまた同類のものであると思う。
わたしは、結論としてはショートバウンドの100本ノックでもいいんだけど、ほかに呼吸法や瞑想やマントラや儀式的なことも含めて、バリエーションがあるのもまたヨーガのすばらしいところなんだなぁ。という理解でヨガを愛好しています。100本ノックやってくれる人も機械も機会もないし、試合もないし。
修行にちなんで、もうひとつ。
お経をあげていて不思議に思うのは、例えば一時間くらい大声をあげつづけても、喉が痛くなったりしないことである。ダラニの場合に特に顕著だが、中国で訳されたものも概ねそうなのである。おそらくカラオケなどではそうはいかない。私なりに思うのは、歌ではいわゆるサビといわれる部分に「イ」と「エ」が多いせいだろう。ダラニなどは「ア」「ウ」「オ」が中心に作られており、また中国ものでも、所々同じ音を繰り返しながらリズムよく音が転がされていく感じがする。
お経をあげているとき我々はお経の意味のことを考えるわけではない。供養する相手のことを考えることはむろんあるが、それよりもむしろ、音が運んでいくに任せて自分が空っぽになっていく感じを味わっているのかもしれない。その時ほど耳がよく聞こえる時間はないくらい、あらゆる音が聞こえたりする。私自身がなにかの通路になると思うこともある。(138ページ)
あらゆる音が聞こえちゃうなんて、思いっきりハタ・ヨーガ!
この本は、まわりの感情やムードやノリに合わせて儀式的に「こうしておけ」とふるまう行為が続いてできた習慣と、本来の儀式やムーブメントが生まれる背景をしっかり分けて語られているのが読みどころ。
トーンはおだやかでオブラートに包んであるけれど、大人の痛快エッセイでした。