うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

宗教(「イスラーム文化 」井筒俊彦 著より)

昭和56年に行われた「イスラーム文化の根底にあるもの」という講演記録が活字化された一冊。講座が三回に分かれていて、第一回目は「宗教的根底」というテーマで、本の章題では「宗教」となっています。
最終章の「内面への道」に至るまですばらしい構成で、最後は密教顕教になぞらえて語られる解説で展開します。
わたしはたまたまヨガ仲間から本をいただいたのがきっかけだったので最初がスーフィーという入り方で、いきなり密教的なものから関心が膨らんでいったのですが、別の方面で法律の本をきっかけにイスラーム文化を知りたいと思っていました。
法については第二章の「法と倫理」ですばらしく解説されています。
この一冊を読みながら、「聖☆おにいさん」が出せたのだから、「法☆おにいさん」とかなんとかいって、ムハンマド聖徳太子のマンガが出ればいいのに……同世代だし、などと妄想しました。(宗教を漫画で学べるって、すばらしいですから)
そんなくだらない話はさておき、今日は第一章のなかから、いつものようにメモを引用紹介します。

<28ページより>
要するに『コーラン』では、宗教も神を相手方とする取引関係、商売なのです。

つねに一対一の取引。

<33ページ>
イスラームの建前といたしましては、『コーラン』という書物は、預言者ムハンマドを通じて啓示された神の言葉そのままの記録として、たしかにイスラームにおける唯一無二、最高の聖典なのでありますが、実はこれと並んで「ハディース」といわれるものがある。Hadithはふつう伝承とか、これに「神聖な」という言葉をつけまして聖伝承などと訳しております。「ハディース」とは、簡単に申しますと、預言者ムハンマドの言行録、つまり彼がいつ、どんな場合に何と言ったか、言わなかったか、どんな行動をしたか、どんな行動をしなかったかということを、その場に居合わせた人が自分の目で見、耳に聞いたままを報告したものの記録が後世に伝えられたものでありまして、預言者の死後、専門家の手で熱心に集められ、編纂されまして、実際上はほとんど『コーラン』と同じほどに神聖視されるに至りました。つまり事実上、第二次的な聖典のようなものであります。

預言者かつ実践者の、ひとり二役。

<43ページより>
 神の言葉の解釈の仕方がもとで、イスラームは自分の死後、次第に四分五裂していくだろうと、預言者ムハンマド自身が信じておりました。それが「ハディース」にはっきりと伝えられております。よくよくみんなが引用する有名な「ハディース」の一節です。そして果たしてそのとおりのことになりました。現在われわれが目撃しつつあるイランをめぐってのスンニー派イスラームシーア派イスラームの激烈な対立も、その具体的な一例にすぎません。結局、究極的には『コーラン』の読み方、『コーラン』の解釈の仕方の根本的相違に帰着する対立なのであります。

仏教の中でも、仏陀は欲を肯定したととるか、否定したととるかで大乗と小乗のような流れがあったりします。イスラームの対比の鮮明さは「明らかに残されたもの」が元であるからなのか、もっとほかの要素があるのか、わたしはまだそこまでわからない。



この第一章は、イスラームの基礎知識のほか、後半で語られるイスラームのアトミズムが読みどころ。

<74ページから、少し要約しつつ引用します>
 この世のすべてのものは神の意志のとおりにあり、すべてのことが神の意志のとおりに動く。しかも瞬間、瞬間ごとにであります。

(中略)


 歴史はつぎつぎに起る出来事のとぎれとぎれの連鎖であるという、このアラブ独特の歴史観、この歴史観を打ち破って、歴史を一つの因果律的に連続する時間の流れのリズムとしてとらえたのが、ずっと後世、十四世紀、独創的歴史家として世に名高いイブン・ハルドゥーン(Ibun Khaldun)という人であります。


(中略)


アラブの典型的な見方からいいますと、イブン・ハルドゥーン的なものの見方は、たいていの場合、むしろ例外的であります。いま私どもが問題にしていることにつきましても、本来のアラブ的歴史観では時間はあくまで非連続であって、連続ではないのであります。
 哲学的にはこのようなものの見方を一般的に非連続的存在観と呼ぶことができると思います。存在の根源的非連続性。もちろん時間的にばかりではなく、空間的にもです。空間的に世界は互いに内的に連続のないバラバラの単位、つまりアトムの一大集合として表象されます。これがふつうイスラームのアトミズム=原子論的存在論と呼ばれている有名なものです。


(中略)


 もともと因果律というもの ── 原因があって、結果がある。原因になるものにある種の創造力があって、自分に内在するその力の働きで結果にあたるものを自分の中から生み出していくのでありまして、因果律というのを認めますと、それだけ神の創造能力が減ることになる。

インドの因果律との圧倒的な違いを感じます。でも同じく「バチがあたる」んです。「梵」はいつでも突然やって来る。でも「梵」の解釈は変化したりしない。いつだって、アッラーという神、ただひとつ。

<同じ流れのつづきです>
行動においても存在においても人間はまったく無力。自分の力では何一つすることができない。そういう絶対無力の人間にしてはじめて絶対有力の神にたいして真の意味で、無条件的に「奴隷」であることができる。これがアトミズムの典型的な人間観であります。純宗教的には他力信仰の極限状態として、これで結構かもしれませんが、それでは人間の自由意志が完全に否定されてしまう。これは重大な倫理的問題です。人間の倫理性だけででゃなくて、神の倫理性まで危くなりかねない。なぜなら、もし人間がまったく無力で、自由意志を欠くものであるなら、そんな人間が悪を為し罪を犯すのも彼の責任ではなく、すべては神の責任になってしまうはずだからであります。


(中略)


果たしてこれが、初期イスラーム神学で大論争を惹き起こすに至りました。

わたしの身近なインド人は、よく日本の裁判のニュースを見て「日本は悪い人を、頭がおかしかったことにしちゃうことが多いネ」と言うのですが、意志の否定肯定という部分で似たものを感じます。裁判では「責任能力」という言葉に変換されます。
「どちらも性弱説」なのだとしたら、日本は病を信仰しているのかもしれません。


以前「イスラームの日常世界」という本で「性弱説」という捉え方を知って、そこからあれこれ考えることが多かったのですが、「人は弱いもの」を前提としたとき、そこに寄り添う宗教への親愛意識が薄いと、どんどん苦しい展開になる(回らない感じ)。
わたしはヨーガと仏教から宗教について学ぶようになったのだけど、実社会とのギャップや癒しマーケットに転化されるヨーガのなかで思いがぐるぐるして、ここへきてイスラームの教えが沁みる。


「けしからん」「ざまあみろ」の火種の苦しみすら見透かしたような、NO因果律で組み立てられる教え。「わるいことはいけません」ではなく、「いい行ないって、なんだ」ということを昔の人が「神の前の個人として」という粒度でとことん考えた素地がある。この素地の上では「なんとなく、いいことをする」という曖昧なマーケットは生まれにくいだろう。
イスラームおそるべし(いい意味で)です。