うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ガーンディー聖書 エルベール 編 / 蒲穆 翻訳

ガンディー(ガンジー)がエラブダ(Yeravda)の獄中から弟子たちに送った一連の書簡と、出獄後に書かれたスワデーシ(Swadesi)の一書をエルベール氏が1937年に抜粋編集したもの。岩波書店から1950年(昭和25年)に発行されています。
<現代版は「ガンディー 獄中からの手紙 (岩波文庫)
なにぶん古い書籍なので、今日は引用時にわたしが現代語版の変換をしつつの紹介になります。
ガンジーという人は学校で習うとおりインド独立の父であり「聖人」なのだけど、一部の思想には独特のものがあります。
社会を身体観で捉える点などは「ガンジーの危険な平和憲法案」を読んでいろいろなことを思ったのですが、この本にはガンジーの思想のキモとなる部分がまとめられています。章立てもシンプルです。


ヨガを学んでいる人は、過去に紹介した「沖先生によるガンジー像」(著作「生きている宗教の発見」)の描写を参考までに再度引用します。

私の青年期に、オッタマ僧正の紹介でインドでガンジー聖師にお会いすることができました。初めて訪ねてきた日本の青年ということで、とてもかわいがってくださいました。ガンジー聖師もオッタマ僧正と同様に、「シャカやキリストなどの諸聖人はヨガを実行してエンライト(悟り)されたのだ。私もヨガを実行している」といわれました。そうしてヨガや宗教を学ぶことは本を読むことではなくて、教えを実行することである。だから、ヨガを学びたかったら、私がどういう生活法をしているかを見て学びなさいといわれ、ガンジー聖師の室の近いところに室をくださいました。

 私はガンジー聖師がどういう生活をされるか観察し、その生活の真似をしました。そして、わかったことは、ヨガとはバランスのとれた生き方をすることでした。ガンジー聖師は動いたあとは静かに、暖めたあとは冷やすというように、バランスをとった生活をされていました。仏教の教えは中道の教えで、ガンジー聖師はそれをそのまま自分の生活法とされていることがわかりました。

 そのとき、ガンジー聖師は私に、「仏教を通じてヨガを勉強しようと思っても、今の仏教は理屈ばかりにはしってヨガ行法的な教えは何もないといってよい。ヨガ行法的なことを実行しているのはジャイナ教であるから、ジャイナ教を勉強して、平和思想家になることができたのです」と話してくださいました。


ガンディーの言葉を読むと、巨大な一国を独立させるほどの思想家は、ここまですごかったのかと思う言葉ばかりです。ロジカルでありながらそれは数学的なイメージではなく、もっと俯瞰的な相互作用に対するもので、わたしのような感覚で読むとそこは圧倒的に「身体観的」ということになるのだけど、この点ですごく一貫性がある。それを社会と照らし合わせたときに矛盾と感じる部分が出てくることがあったとしても、「道理」の道の刻みが濃い。はっきりしています。ふわっとしていない。そしてその道の行き先が広すぎたことが、暗殺に繋がってしまう。
多くの宗教との共存についての説きかた、行動という点で、そのオープンさが暗殺の原因にもなったのだけど、「ヒンドゥーイスラーム」についてあらためて視点を深めた後で読むと、このガンジーの書簡の重みがずしりと響いてくる。


何箇所か紹介します(旧漢字が多いで、そこはわたしが書き換えています。現在では「成長する」になるであろう「生長する」というような、漢字自体は旧字でない表現はそのまま記載します。旧字が古すぎて予測が難しいものもあります。厳密な正確性の点はご容赦ください)。ガンジーが「私は」というときは本文中、「予は」と記載されています。


■第一部より

<真理(サティヤ・Satya)より>
 真理の探究に関しては、ハリシュチャンドラ(Hariscandra)、プラフラーダ(Prahlada)、ラーマチャンドラ(Ramacandra)、イマム・ ハサン(Imam Hasan)及びイマム・フサイン(Imam Husain)並びに基督教聖者等の生涯を考察すべきである。我々が老いも若きも、男も女も、真理のためには、働く時も、食べる時も、飲む時も、楽しむ時も、寝ても覚めても、この肉体の壊滅するまで、一身を捧げて、神と合一することは、いかに立派であるだろうか。

ここを読むことで、ガンディー暗殺の背景にはヒンドゥー原理主義者の反発があったという史実が少しリアルに感じられた。この部分以外にも、ガンディーの言葉には他の宗教との共存のありかたへの言及が多くみられます。

<博愛(アヒンサー・Ahimsa)より>
(盗みにあった場合や病の考え方など、「身体は我々の私有物ではない」というヨーガ的な、うなるしかない道義のあとに)
 以上述べたところによって、恐らく博愛なくては真理を求めることも、発見することも不可能であるを、理解出来たであろう。博愛と真理とは両者密接に結合し、実際上これらを判別することも、分解することも出来ないほどである。両者は貨幣の両面というよりも、寧ろ平滑な金属盤の両面の如きものである。誰がよくどれが裏面であるかをいい得るだろうか。それにしても博愛は手段であり、真理は目的である。手段が手段たるにはそれが常に我々の身近かにあるべきである、それ故博愛は我らの至高の勤めである。我々が手段を大切にするならば、早晩目的を達成し得ることは確かである。一度この道理を理解したならば、終局の勝利は疑う余地はない。いかなる困難に遭遇しようとも、受くるところの外観上の失敗がいかにあろうとも、真理の探究を放棄してはならない、真理は神自身であり、唯一の存在であることを忘れてはならない。

ただ目的だけをひたすら説くだけなく、手段を積み重ねればいつか……という語り口からフワッと輪廻思想で煙に巻くでもなく、目的と手段の道理を説く。指導者だ。

<純潔(ブラフマチャリヤ・Brahmacarya)より>
 一般に純潔を守ることは甚だ困難で、殆んど不可能と信ぜられた。しかしこの信念の根元を探れば、純潔の意味が狭く解せられてあることを知るのである。由来動物のような欲望を制することが純潔であると考えられた。予はこの解釈は不完全で間違であると信ずる。純潔はすべての感覚器官の統制を意味する。ただ一つの器官を支配することを努め、その他を放置する人は、必然に努力が無駄であることを知るであろう。誘惑味ある話を耳にし、同様な光景を見、興奮性の食物を口にし、同様な品物を手にし、しかも同時に残りのただ一つの器官を支配しようと考えるのは、丁度火の中へ手を入れて、火傷せぬよう希望すると同様である。一つの器官を支配せんとする人は、同様に他の器官をも抑制することを決意せねばならぬ。予は常に純潔の狭き解釈が多くの不都合を齎らしたことを感じた。同時にすべての方面において自己支配を訓練することは、科学的な企図であって、成功可能である。恐らく味覚が主たる問題であるだろう。それ故わが修行国では守るべき法則中、嗜慾の抑制に特別なる地位を与えたのである。

ここでは純潔と食についてのことが書かれていました。次の引用に続きます。

<嗜慾抑制 より>
 間違った愛により、両親は子供らにいろいろ変った食物を与え、彼らの健康を害し、人工的の味覚を生ぜしめる。子供らは生長して病身となり、その味覚を変質する。少年時代における虚弱の不幸なる結果は、刻一刻我々を狙っている、即ち多くの金銭を浪費し医師の餌食となるのである。

(中略)

理想は太陽が唯一の料理人であるとすることである、けれどおも予は我々がこの幸福なる境地から、甚だ遠ざかっていることを認めるのである。

沖正弘先生の「完全食」の思想はガンディーのこの部分の影響が大きいのではないかな。

<不可触制度排除 より>
一般の人はパンギー(Banghis)、デッド(Dheds)、チャーマール(Chamars)及びその他を軽蔑して、生れながらの不可触人であるとしている。これらの人々も年中入浴し、又浴するときには石鹸で身体を洗い、正確に衣服を着け且つヴァイシュナヴァ(Vaisnava ヴィシュヌ派)の記章を着け、毎日ギーター(Gita)を読み、なお自由なる職業を営み得る、それでも不可触人として取り残される。これは無条件の宗教無視であり、この思想は根絶せられるべきものである。
ヴァイシュナヴァ(Vaisnava ヴィシュヌ派)の注釈:印度教徒三大派の一つである。他の二つは Sakta(シャクティ派)と Saiva(シヴァ派)である。印度においては、顔面、両腕及び胴体に香木粉で形造った目印を持ち、種姓と宗教を区別する。

「この思想は根絶せられるべきもの」という主張と「制度をどうするか」という点は、ガンジーの思想と行動の不思議なところで、「不可触制度」は、歴史的にはその後議席の扱い方などの具体的な決定事項から現実的なむずかしさが見えてきます。ここはどこまでコメントで細かく書こうかと思っていたら「Wikipedia」がすばらしくまとまっていました。
高度成長まっただ中の現インド社会では、「エリート社会人」の議席(仕事の枠の取り合い)という現実があり、アンベードカルのような優秀な人がいっぱい出てきちゃったらどうするのだろう。という、昔はまだ一部であったことが、現実として増えていく。

<謙遜 より>
自己の徳について慢心ある人は、隣人には厄介物である。隣人はかような人を尊重しないのみならず、その人自身も亦何ら得るところがないであろう。

名言だ。

持戒 より>
「可能な範囲でかく行動する」というのは、自負心か無気力かを告白するものである。予自身においても又他の人々に関しても、「可能な範囲で」の条件は、不幸なる逃路を与えるものである。ある事を「出来るだけ」実行するというのは、第一の誘惑に敗北したのである。「可能な範囲」で真理に従うだろうというのは、なんの意味をもなさない。

とことんです。

<スワデーシ(Svadesi)より>
 なんでも構わず若干の糸を紡ぎ、それで造った布綿を所有して、スワデーシの義務を果たした考えるのは最も大なる誤りである。布綿の製造は一般社会に対するスワデーシ教法上不可欠の第一歩である。国産布綿を所持しても、別に外国品に嗜好を向ける人がある。かような人はスワデーシの実行者ではなく、流行追随者である。スワデーシの修行者は注意して環境を研究し、たとえ品質が低くとも、外国品より値が高くとも、地方産品を選み、幾社ある毎に出来るだけ同胞援助に努力すべきである。更に修行者は進んで地方産品の欠点矯正を試むべきであり、不良の故で外国品を希望して、地方産品を見捨ててはならない。

わたしは、「ガンディーの推し進めたこと」のなかで、スワデーシが最も太いものだったととらえています。これを敢行するために、同胞内でぐちゃぐちゃやっている場合ではないのだよと。独立のための一本筋として、やっぱりその功績はこの考え方にあると思います。




■第二部(他の文書から)より(すべて短い文章です)

<博愛(Ahimsa・アヒンサー)より>
 暴の本質は考え、言葉或いは行いの背後に、過激なる意図を持つものである、換言すれば独り決めの敵手へ悪をなす希望である。

換言すれば、のあとが鋭いですね。過激な正義という暴もある。

<博愛(Ahimsa・アヒンサー)より>
 いかに到達すべき目的が明らかでも、又成就せんとの希望が熱烈でも、必要な方法を理解せず、又実行しなくては、我々を導くに足らない。それであるから、予は方法に誤りなきよう注意し、且つ実行が進捗するように特に留意する。かようにすれば、確実に目的を達し得るのである。なお方法が純良であれば、それだけ目的に向い進み得るであろう。

ここはとても苦労したところなのだろうなと思う。

<博愛(Ahimsa・アヒンサー)より>
 暴力否定が現実の力となるには、肉体と精神とが調和並進せねばならない。肉体のみを取り扱い、精神を伴わせていないなれば、それは弱者と怯者の暴力否定で、なんの力も生れ来ないのである。
胸中に悪意を持ち、復讐を好まないように見せるならば、報復は反って自己の上にかえり、且つ死に導くであろう。肉体だけのあらゆる暴の禁戒を立派に守るためには、例え積極愛を発露出来ないとしても、少くも怨恨の感情を持たないことが必要である。怨恨の感情をそそるようなすべての歌や談話は禁ぜられるべきである。

ここがいちばん印象に残った。文明の発達と共に響いてきそう。

<純潔(ブラフマチャリヤ・Brahmacarya)より>
 胸中で楽しむよりも肉体で楽しむほうがよい。性欲が動くや否や、直ちにこれを放棄するよう努力し、これを抑圧するよう試みるがよい。肉体の享楽が不足して、精神がその思いに溺れるなれば、肉体の欲望を満足させることが正常である、この点に関しては予はなんの疑いを持たないのである。

わたしが先頭に書いた「一部の思想が独特」と書いたのは、この「ブラフマチャリア(純潔)」のこと。「ガンジーの実像」に書かれていたことは実際に見ていないからわからないけれども、「肉体の享楽が不足して、精神がその思いに溺れるなれば、肉体の欲望を満足させることが正常」という考えがあったのだということを、この本で初めて知りました。

<寛容即宗教の平等 より>
 祈願するときには、言葉を考えて心をそこに置かないよりは、言葉を考えずして、心を祈願の内に沈める方がよい。

絵馬を書くときに注意しましょう(笑)。たまに、びっしりすごいのを見かける。


ガンディーの語る「博愛の方程式」が、いろいろなバリエーションで出てきます。それは仏教的だったり、キリスト教っぽかったり、イスラーム的だったり。
多くの宗教を結ぶことについて考えるとき、ガンジー以前のヒンドゥー的な「博愛」というのがぱっと浮かんでこないことが心にひっかかった。今後はそこに着目してみてみよう。

わたしは古書のほうを読んだのですが、なにせすごい旧字なので、「ガンディー 獄中からの手紙」のほうが読みやすいかと思います。

ガンディー 獄中からの手紙 (岩波文庫)
ガンディー
岩波書店
売り上げランキング: 220128
ガーンディー聖書 (1950年) (岩波文庫)
ガーンディー
岩波書店
売り上げランキング: 1062958