ここ2年ほど、カビールの詩を写経のように書き写しています。
この詩は平凡社から出ている「宗教詩ビージャク インド中世思想の精髄」という本に収録されていて、「ラマイニー」「サバド」「サーキー」の3つの型の詩集が収められています。
「ラマイニー」については昨年書きました。
「サバド」はサンスクリットのシャブダ(言葉・音声)から派生した言い方(古語ヒンディー)で、一行の半行句半どうしが韻を踏んでいる場合が多いそうです。
カビールはデリーにムガル帝国の基礎が築かれはじめた頃の人物で、ハタ・ヨーガに関する書物が残された時代の少し後の人です。カビールの詩を読んでいると、ヒンドゥーとイスラームがそれぞれどのようにその権威を強調していったのかがわかり、それぞれに対してかなり具体的なツッコミを入れています。
特に「サバド」ではヒンドゥもイスラームもも女性を男性よりもかなり下の存在として扱っていることについて指摘しています。こんなふうに書くと軽々しく見えるかもしれないのですが、カビールの詩って、現代の感覚で読むと本当にぶっちゃけている感じ。
このように謳われています。
聖紐を着けてブラーフマンになるならば、女は何を着たらよいのか。【84-7】
スィーターはラグナータ(ラーマ)に嫁いだが、一瞬たりとも幸福ではなかった。【110-4】
女性の尊厳を問う詩がところどころにあり、「ラーマーヤナ」のシーターが婚姻後にひどい目に遭いすぎ件について、ばっちり突っ込んでくださっています。
聖紐については以前こちらに書きました。
ヨーギーに対しても、視点が淡々としています。
カビールは言う、聞けサントよ、ヨーガ行者はスィッディ(超能力)が好きだ。【82-8】
ゴーラク[ナート]は気息を保つことができなかったが、ヨーガの方法を編み出した。【90-4】
どのように[彼岸に]渡るのか、ナートよ(←ナート派ヨーガ行者を指している)、[内面は]とても歪んでいるのに。【104-1】
そろそろ、少し感じがわかってきましたでしょうか。
カビールの詩には、ヒップホップの人たちが開発したラップのディスりのような、そういう視点があります。
イスラームで肉食をする年長者に対しても同じように辛辣な詩を謳います。以下などは普通にいま読んでもパンチがあります。
[髪の]黒さはなくなって白くなったが、心は今でも白く(清浄に)なっていない。【83-1】
自分の偉さを称賛するヒンドゥーとトゥルク(イスラーム教)の自我に突っ込む詩には慣用句が含まれていて、独特の表現です。
自分の心に大きな自我意識をもっているが、水がないのに沈んでいる。【113-10】
「水がないのに沈んでいる」というのは「些細なことで堕落する」という意味の慣用句だそうです。
わたしはときどき、インドの人が言う独特の表現にはっとします。
前に『チャルラータ』という映画を観たときに(原作小説はタゴール)、まさかと思うような形で失業をした人が「足元から地面がなくなったようだ」と言っていて、うまいこと言うなぁ、と思ったのを思い出しました。
カビールの詩は、自由や束縛されないことについて語ろうとするからには、力強さと鋭さがなければ言葉にしても意味がないというくらいの鮮やかさがあり、そのパンチ力に目がいきます。
ここまでに紹介したのは特徴的な一文ですが、ほかにもさまざまな表現の展開パターンをもっています。
なかでも以下は、勇敢な宗教改革者としてのパワーが炸裂しています。
114番目の詩です。
どの詩からも、この時代にカビールの周りにいた宗教者たちにもはや聖性はなく、そのなかで神を信じて生きるとはどういうことか、逡巡を経ていることが伝わってきます。
わたしは日本語訳で読んでいますが、原語では韻も踏まれているわけなので、それはそれは沁みるのだろうと想像します。