トリグナやトリドーシャとの関連づけでアーサナについて話すときりがないのですが、今日はわたしの身体感覚でのこと。
トリグナではサットヴァ至上主義であったり、トリドーシャではヴァータ至上主義のような、まるで3つの要素のそこは増えてもよいような書かれかたをすることが多いのですが、わたしは「そうかな?」と思っています。
アーサナをやっていると、タマス(カパ)もラジャス(ピッタ)も、「増加している=悪=減らす」ではなく、「溶かす」というアプローチがいいんじゃないかというのが自論です。
アーサナの仮定で自分の状態を知るシンプルなプロセスは
なんだかここを地味に刺激すると気持ちがよい(「地味に」がポイント)
↓
なんでだろう?
これだけです。
たとえば、ダウンドッグ。
アライメントとしてはNGとされることでも、もしそこに地味な刺激を求めているのだとしたら、そこは正直に身体にしたがってみていいんじゃないかと。
アライメント的には
無意識に胸の裏を反らすことでわきの下の胴体寄りのところ(わきの下の付け根という感じのところ)への刺激を求めることって、ありませんか?
わたしはこういうのは、「タマスを溶かす刺激」と感じるんです。
身体が促す、身体が求める刺激。なので、そういうときは、同じ目的のアライメントの部分を崩さない範囲で、身体の要求に従ってもいいと思うのだけど、
同じ目的のアライメントの部分を崩さない範囲って、なに?
という疑問を持つかた、多いかと思います。
ここが説明のむずかしいところなのですが、こういうのはもう身体感覚の積み重ねからの自論でしか書けない。
ダウンドッグでいうと
このキレをそのままに保ちつつ、ちょっと胸を反らしてわきの下を刺激するのは、アリなバランス調整じゃないかと。欲望のままに胸を反らせるとここはフワッとせざるを得なくなるのだけど、そこがあまり甘くなりすぎない範囲で。
細かすぎてわからない話かもしれませんが、杓子定規にアライメントを追求すると、自分の状態を知るきっかけがどんどん流れていってしまう。
なにげなくなにげなく「首を回すとき」「指を反らしたいとき」などは、まさに「滞りを溶かしたい」という身体の要求。アーサナ中のほうが、「ここはこうしなきゃ」と思うことでかえって見逃しがちになる。
わたしの感覚でのセオリーは
タマスは裂け目がお好き
だって、溜まりやすいもんね。自分の身体がなんかのオブジェと考えたときに、お掃除のときにゴミが溜まりそうなところ、というとわかりやすいかな。
- 股
- わきの下、
- 指の付け根
- 目や口の裂け目
- あごの裏と首の間
- 膝裏
- 肘裏
上記は、「気」。元気がなくなると開くのも強く閉じるのもおっくうになるところ。
以下は「血」。水と空気がきれいな場所にいる蚊が狙ってくるところ。
- 足首
- 手首
- 指の関節
血液の滞りどころを、わたしはよくワインボトルに喩えるのだけど、ザラザラとした重いものが溜まりやすいところを身体に置き換えるとイメージしやすい。葡萄のしぶしぶが残るところ。
これはわたしの「パワースポット認定基準」でもあるのだけど、水と空気がきれいな場所にいる蚊は、清浄な環境とのコントラストで「人間の血がにごっている箇所」をよりパチッと見分けちゃうんじゃないかと思っている。
「もう、どうしてもアンタのくるぶしの内側が吸いたくて吸いたくてしょうがないんだよう」とばかりに、蚊がふわっふわとそこばかりに寄り添ってくると、「んまー! この蚊ったら、舌が肥えちゃって」と思うんです。
話がかなり脱線しましたが
こういう滞りどころを「溶かしたいかのような動き」を身体が求めてきたときは、「おっと、どうした?」と対話したほうが、ヨガは楽しい。
ここはああやって、こうやって…… でもなく
先生、こうなるということは、こういうことですか? でもなく
「本能の声をきいてみな! 話は、それからだ」
(それでもわからなければ・・・)
「蚊にきいてみな!」
湧き水に定評のある神社やお寺へ行くと、わかりやすいですよ。
ちょっと夏っぽくまとめてみましたが、強引だったかな。
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