今日のタイトルの「コミット」は和製英語としてのコミットです。コミットとフルコミットの強弱があるあたりが、いかにも日本人のつくった和製英語って感じでおもしろい言葉です。
数年前にはライザップさんが「結果にコミットする」という広告表現をされていたので、耳に覚えのあるかたもいらっしゃるかな。
さて。
今日のタイトルは、わたしがヨガをきっかけに知ったインドにある考え方のなかで「ここにずっと感動し続けている要素」という意味です。わたしは結果よりも背景にコミットしています。
ヨガはインドのもの。バラモン教・仏教との親和性については視点を変えればそれぞれ強みとして主張したいポイントが変わるし、インド=みんなが輪廻思想ってわけじゃないけれど、それはさておき、です。
そういう複雑なあれこれはさておき、2000年代を生きるわたしがその発明に感謝し続けているのが、以下の考え方です。
- 肉体は魂の乗り物/生のスイッチのオンオフは心臓
- 同じものが外部環境との化学反応で形を変える
- カルマには浄化という対処法
- 原因のなかにすでに結果性がある(因中有果論)
- 祈りがある
肉体は魂の乗り物/生のスイッチのオンオフは心臓
肉体は魂の乗り物で、魂が肉体を乗り替えていくと考えるのが輪廻思想です。肉体と書きましたが、虫の場合は殻だったりもする。
わたしがコミットする感覚を持っているのは「乗り物」というところで、その上で、動かなくなるという状態(肉体の死)との境界を心臓においているところも興味深く思っています。
この考えでは、脳が死んだら終わりという考え方になりません。
漠然と”脳が死んだらどうしよう” とか “自分が自分じゃなくなること” について考えるときに、自分が脳=存在という感覚にいかに縛られていたかに気づき、ああそうか、自分は生のスイッチや接続点について考えたことがなかったのだな、ということを知りました。(頭で生きてる気になっていた、といったらわかりますか)
以来、自我と心身の距離が詰まりすぎて感傷が大げさなときなどに、「世界とつながるスイッチがいまONなんだな」と思うと、スッと風が通る。そういう感じがあります。
同じものが外部環境との化学反応で形を変える
水(H2O)が、常温なら液体、加熱すれば気体、凍れば個体になるように、同じものが変化することを心にも当てはめて考える考え方が好きです。トリグナの概念で状況を捉えると、いろいろなことを留保できます。
これは他者に対してネガティブな感情を固定しないためのアイデアとしても秀逸で、「贈り物をいただいた=感謝」ではなく、その贈り物が賄賂であればラジャスが優勢な贈り物だし、囲い込みのための根回しであればタマスが優勢な贈り物。
そうか、そこにあることは「贈り物をいただいた」なのだと、思考をいったん留保できます。お礼をどうすれば良いのか考えるせっかちな思考を冷静な状態へ落ち着かせるのに、トリグナの概念は社会生活のなかでも役立ちます。*1
日本のコミュニケーションの慣習、その息苦しさに風穴を開けてくれつつ、誰のことも悪者として固定しない。同じものが転変する(パリナーマ)と捉える、このロジカルな平和主義が大いに気に入っています。
カルマには浄化という対処法
失敗に対して「罪滅ぼし」ほど重くない「浄化」というシンプルな対処法があるところが、なんとも日常的な救いと思います。
失敗って、大人になるほど後からわかることが多いもの。恥と直結するわかりやすい失敗は学生時代までが頻繁で、大人になると減っていき、そのうち自分で自分を秒速でごまかします。
わたしは焦点が合わせられないような淡い・複雑な失敗に対して、祈りも含めて「浄化」というアクションがごく当たり前のものとしてあるところが、ヨガがスポーツやエクササイズと格別に違う点だと思っています。
身体面でも、関節を様々な角度で動かすことで滞りを流してカルマを浄化するという考え方があるから、なにもそんなところに手足を置かなくても・・・、と思うようなヘンテコなポーズがある。おもしろいですよね。
原因のなかにすでに結果性がある(因中有果論)
原因と結果に対してインド思想にはいくつもの考え方があって、わたしはサーンキヤの因中有果論を初めて知ったときに、「インド人、頭良すぎ!」と思いました。
原因のなかにすでに結果性があるという考え方。
わたしはこれを自分に当てはめたときに
原因のなかに結果性を含んでいる
↓
自分の中にあるよくない性質の種に養分を与えないようにしなければいけない
↓
この畑を管理するのは自分だ
という主体的な考え方ができて、いろいろなことがラクになりました。
エネルギーが下がると自分の性質を棚に上げて誰かや何かのせいにしたくなるもの。
だけど、それでいいんだっけ・・・という考えがずっとあったところに、マッチョな精神論とは違うものがあることを知りました。
整体の野口晴哉さんが「同じ土に植えてもナスは紫色に成るものだしキュウリは緑色に成るもの。性質はそれが大前提」というようなことを本に書かれていて、サーンキヤの思想を学んだときに思い出してしっくりきたというのもあります。
祈りがある
ヨーガの理論部門と言われているサーンキヤの思想はいきなり「苦しみは3種類ある」といって、そのリストアップからはじまります。「内面の心配事」は、その3つの苦しみのひとつ。
自己内点検がやめられないときって、自分がまるでコントロールできない領域にいる感じがしませんか。
これが、祈りと結びつく。
祈る行為がそこにあることで「自分の力が及ばないこと、コントロールできないことがあるということを理解している」という精神状態を証明する。祈るということは、そういうことだとなにかで読んで、ハッとしました。
祈るという行為について、わたしは「行為によって証明される」という発想をしたことがなかったので、祈りについての学びに少し触れただけで目からウロコでした。
「祈ったらうまくいくかも」という願望・欲望を満たすための行為としてでなく、生きることの大変さを理解していることを証明するものとして祈りがあるというのは、宗教観の薄い日本で生まれ育ってきたわたしにとって、新たな学びでした。
* * * * *
今回は大きなものを5つあげました。
他にもすばらしいと思っている教えがいくつかあるのですが、日常の思考と紐づけて少ない文字数でサクッと書けるのは、こんなところです。
ヨガは心を楽にするための理論が独特で、実はぜんぜんフワフワしていないところがおもしろいな、と常々思っています。
ものすごく雑に要約すると、
座位は快適であるべきだ。
なぬっ? 座位がしんどいだと? それは足首が硬いからじゃ。
そこに溜まったカルマをほぐして浄化して柔らかくして血流をよくすべし!
みたいな発想。
完全におもしろおじさんですよね。
座位がしんどい → 椅子をどうぞ まだしんどい → 高機能な椅子をどうぞ
というレスポンスを求める人には、そもそもミスマッチ。
ヨガを続けていくとモノを持たない傾向になっていくのも、なんかしっくりくるところなのです。
わたしはマインドの面でも同じことが言えると思っていて
自分が見ている世界がしんどい → 陰謀論をどうぞ
みたいなことってあるよなぁと、そんなことを思ったりしているのですが、そういう話はここではやめておきます。お口にチャックウィルソンです。
精神面のほかに生活面でコミットしていることもいくつかあるので、それもいつか書こうかな。
*1:バガヴァッド・ギーター の17章