全般情緒的な雰囲気ですが、各都市の雰囲気の背景の説明がしっかりされているので、イスラーム化したアジアの歴史を知るのに、とても読みやすい一冊でした。日本も外から見たら京都と東京はまったく違う由来を持つ都市だし、関西よりも南へいくほど神道色の近い場所もある。同じ仏教でも高野山と比叡山はまた違う由来(および思想)を持つ。
わたしはアジアのいくつかの国へ行ったことがあるけれど、イスラームの入っている度合いによって大きく二分していると感じます。この視点で行くと日本は中国や韓国の仲間であり、儒教的な価値観を残しつつ、仏教は封建的に栄えた後に死を取り扱う儀式としてシェア(寡占のほうです)のみを残し、お披露目の結婚式はキリスト教式で、でも禊を感じる新年や、個人のキャリアにおけるここぞというときのお願い事は神道だ。
日本の場合は事情が特殊で、あるときアメリカの子会社みたいになってから思考停止しがちになり(まあ、疑わない「いい人」が多いのか)、ヨーガを学んでいてもイスラームを学ぶ人は少ないし、そもそもヨーガを宗教だと思って学んでいない。アジアの宗教はとってもカオスなのだけど、日本の特殊さを知るのにインドネシアという国の歴史はとてもよい教材だと思います。マレーシアの本土やタイやカンボジアもそうなんだろうなぁ。
この、インドネシアの「バンドン」という都市の説明のくだりにあるまとめは、とてもわかりやすかった。
<38ページ「バンドン ── スカルノの愛した町」より>
インドネシアを旅しているとバンドンのような内陸都市には独特の味がある。一言で言えば静寂なのだ。大きな都市であっても海岸都市に比べると、なにか落ち着いていて静寂な感じがする。さらに言えば、孤高、宗教的審美的な静寂さを感じるのである。
かつてヒンズー大国マジャパイトはこの内陸に立地する「城郭都市」が主体であった。米を基盤とした都市は内陸に立地していたからだ。当初、海岸は塩水が侵入して稲作に向かないというのが一般的であり、また海岸部では略奪(人も含めて)が横行していて人もあまり住み着かなかった。従って、漁業というのも発達しにくい状況であった。*1ヒンズー王国マジャパイトは内陸の農業の富であるところの「米」と「軍事力」によって力を維持していたのだ。そしてヒンズーによるカリスマ的な力によって効果的に城郭都市を維持していたのである。
しかし一方に於いて時代とともに徐々に国際貿易によって商業的な人々が海岸部に台頭してきた。彼らは商業の民であり、城郭都市のように農業、安定。孤立主義というものの正反対に位置していた。彼らは一か所に止まらず富を求めて常に移動し、安定よりも変化を好み、ジャワ的であるよちも国際的であることを志向してきた。やがて、これがジャワ北部沿岸に港町として形成されていくのだ。そして、それが交易のための中心地になりバザール都市へと発展していくのだ。*2
さて内陸、城郭都市の王はやがてこの国際貿易の華やかさに魅せられて、この海岸部をも手中にしようと乗り出す。しかし従来のようなヒンズー教的な力では彼らは懐柔できないことをやがて知るのだ。海岸バザール都市の商人の多くは外国人であり大半はイスラム商人であった。また残りは華僑であった。従ってヒンズー的な宇宙論に基づく主権の主張は目まぐるしく移動する彼らには何の効果も無かった。そもそも価値観からして決定的に違うのだ。
やがて王は外国人商人に対する有効な支配権の確立を果たすためには、ヒンズーのマジャパイトから独立を達成して、彼らと同じ価値観を持つ必要性を感じる。イスラムという共通の土壌に立って、彼らを取り込んでいくしか方法が無いのである。必然的に王はイスラムを名乗るようになる。
つまりは政治的、経済的動機からジャワ人はイスラムに改宗していくのである。従って、宗教的動機からでは無いので、ジャワ人の宗教的志向自体にはそんなに変化はなかったのだ。極端なことを言えば、宗教がガラッと変わったとは言え、当初は経済的な変化があっただけなのだ。かくしてバザール海岸都市が発展することになる。
政治的、経済的動機からイスラーム化するこの流れは「柔軟」であって、「従順」ではないんですよね。そこが日本と違うなぁと感じます。
<140ページ「バツール ── 道のない村トルーニャン」より>
(風葬の行なわれている独特の墓所で)
その奥の道の突き当りを見て、再度ギョッとした。な、なんと夥だしい骸骨が階段のようになった段の上に整然と並べてあるのだ。ずっと並ぶ骸骨の列は不気味である。カンボジアのポルポト兵士の大量虐殺による夥しい骸骨をゴソッともって来て並べたような感じである。ゾーッとしてると、急に目の鋭いゴツイ男が出て来た。目は怒って、顔は笑っている。そして賽銭をこの皿に入れよと言うような仕草をして皿を差し出す。百ルピア札を出すと駄目というふうに首を振って、五千ルピアをズボンのポケットから出して見せる。これは高い。私は千ルピアを入れて我慢してもらう。しかし男は執拗だ。ずっとまとわりついて、死体と一緒に写真を撮ってやるとか、骸骨を持ったところを写真に撮るとか言って、棚の上から骸骨を一つ拾って私に投げようとする。厳粛な死が見せ物になっていることに怒りを表すのは簡単だが、それ以前にどうしようもない貧困という問題が重く被さっているのだろう。男は執拗に骸骨を持ってみろとせがんだ。そうすることによって更にチップをもらおうとしたのだろうが、私は慌てて飛びのいた。目にクモの巣が張られている骸骨を手渡されて正気でいられる訳がない。動転しながら私は逃げた。死人や骸骨が苦手な小心者なのだ。
ダメだと思った男は次に、私のカメラをもぎ取り私を骸骨の階段前に座らせシャッターを切った。私はぎこちなく座って必死にほほ笑もうとした。後日現像したところ、この男は写真の撮り方も知らないらしい。私の上半身と骸骨はファインダーから外れていて、足元だけが写っていた。
早く帰りたくなって私は更に千ルピアをこの男に渡し、船着き場に急いだ。するとどこから出て来たのだろう。大の男四人が私を取り囲み、
「チップ、チップ」
の大合唱である。
このあとはガイドが応援に来てくれて船に乗り込み、船の中まで追いかけてこようとするのを振り切って逃げたという話。先日ベトナムへ行った人から、現地の人の接客態度の豹変振りがすごいという話を聞いたのだけど、「その人はその人が仕事だと思っていることをしただけでは?」という話に着地して、このような旅での刺激的なエピソードもまた、そうである。あたたかいコミュニケーションというのは、余裕がなさすぎてもありすぎても発生しにくいもので、やはりギブアンドテイクの妙を楽しむものなのだろう。
<220ページ「再びクタ ── ジゴロを囲む共同社会」より>
(日本人女性からお金を得ているジゴロの状況説明のあとで)
彼らは規制によって生きるというよりも、友人などの人間関係によって生きているのである。人間同士の貸し借りによって明日を見ているフシがいくつもある。
従って今日どれだけ友人に貸しを作ったかが、明日の実入りを保証するものでもある。どこでも「高い」と言えば、どこかから第三者がやって来て、それは高くないそんなものだと言うのである。これが共同社会というものである。
インドのマハーバリプラムも運転手とガイドの共同ワークが成り立っていて、そこで価格が成立する流れで「少し高いのかな」と思いつつも、「専門性のコラボとうい点では、えらいな」とも思った。ガイドさんはマハーバーラタもラーマーヤナも完璧に頭に入っている人だった。専門性を安売りしない仕組みって、重要だと思う。
<207ページ「メナド ── 日本の面影を残す町」より>
「メナドの女性は美しい。肌が白いんだ」という言葉はインドネシアのどこでも聞かれる。インドネシアではメナドの女性というのはブランドなのだ。さしずめ、中国で言えば蘇州というところか。若い女性に「あなたはメナドのご出身ですか」と聞けば、それは、「あなたは美人ですね」という褒め言葉になる。
日本じゃ、秋田かな。でも「あなたは秋田のご出身ですか?」と言われたら「な、なまり、出ちゃってます?」となりそうだなぁ。
戦争で他国の支配を受け、そしてまた歩き出す。アジアの多くの国が「宗教」や「信仰」を心の拠り所としながら歩んでいるのに対し、見ようによっては日本はかなり特殊な状況だと思う。共同社会ではなく「恥」の概念で縛りあうこの力学は、もはや「宗教」に相当するのではないかしら。
ちょっとくらい失礼でも、ナマナマしい人間でありたい。最近ふとそんなことを思ったりします。