先日紹介した「スピリチュアリティ革命 ― 現代霊性文化と開かれた宗教の可能性」と同著者さんの本です。スピリチュアル本としての基本的な紹介は、TeruSunが書いてくれているので割愛。
「スピリチュアリティ革命」よりもこの本を先に読んだのですが、「廉価版として書いている」雰囲気がありつつも、私生活に取り入れているヨーガの記述がオープンで、なんだかかわいらしい感じです。
この著者さんは佐保田ヨーガを自主練エクササイズとしてやっているそうなのですが、結跏趺坐で睾丸の置き場に困った経験の記述があり、佐保田先生のヨーガ入門書で、うちこが過去に読んだものでは池田書店版以降はここが書かれているものがない。やっぱり困っている人がいたんだ(笑)、と思いました。
前半は、日常へのエクササイズや座禅、瞑想の取り入れ方のお話なのですが、ラベリングまで出てきます。そして本題は第三章以降です。まずはそこからひとつ、この本のスタンスがわかりやすい記述を紹介します。
<137ページ スピリチュアルブーム より>
「スピリチュアル」という言葉は、本来、単に「スピリチュアリティ」の形容詞にしかすぎないので、それ自体に悪い意味はない。先に触れたように、意識が心のレベルを超えているという意味である。しかし、そうした表現はどれも、これまでふつうに語られてきたことを、「スピリチュアル」というキャッチフレーズでイメージアップしようとしている。安全で儲かって、きれいになって、気分のいいリッチな生活ができればいいという、「何となくスピリチュアル」の快楽主義である。「スピリチュアリティ」は目に見えないものだけに、商業主義に利用されやすい側面があるのだ。
ここの「何となく」はひらがなで書いて欲しかったなぁ、なんてことはさておき。「気分のいいリッチな生活」というのは、「なんとなくクリスタル」の後で不況になって、「ブランド」が「気分」に多き替えられている。そのスピリチュアル、プライスレス。
ヨーガはやれば身体の調子がよくなるものなので、それに後づけで「ほらね」といってビジネスにしやすい。マーケットの核は、昔のインドの暇な人たちに感謝する前に、目の前の人に感謝したあとにすぐさま生まれる依存心。ゆっくり実践して学ぶことをショートカットできると感じることや、第三者による「証明」を得るためにお金が支払われるのはマネタイズの基本なので、TTCビジネスのヨガ・インスティテュートがバンバン生まれるのも、すごく自然なことなんですね。
ここから二つは、実践について語っている前半の章からの紹介。
<18ページ 次はヨーガ より>
これはもちろん、私が酒好きだから、ちゃんとヨーガができない、と言い訳しているわけではない。本格的なヨーガは、人生を追い込んで、人生をかけて行わなければならないので、出家したり遁世したりして、専門的に探求しないとちゃんとできたものではないのである。
それに、神や原理と一体化してしまったら、離婚したり、家族を捨てたり、財産を全部寄付したりしてしまいかねないので、ふだんの生活に支障をきたしたり、家庭崩壊したりする。私たちふつうの人間にとっては、やたらめったらなことでは、そんな絶対的存在と一体化してしまっては大いに困るのである。もちろん、お釈迦様みたいに、悟る前から家族を捨ててしまった人もいるので、家に有り余るほどの財産がある人以外は、くれぐれも十分注意していただきたい。
インドで知り合った友人でも、ちゃんと日本に戻ってきてから日本社会のフローの中に再順応できている人としか友達づきあいができない。なにかを否定しなければできないヨーガがいちばん扱いに困る。
<100ページ ラベリング より>
ラベリングは、このようにたいへん単純だからこそ、実践するのはけっこう難しい。
まず、歩くことに集中するので、たとえば、横を車が通ったり、歩いている人に目がいったり、人の話し声や店のうるさい宣伝文句が耳に入ってきたりする。そういう場合は、坐禅の想念を切るのと同じで、「車、通った」とか「話、聞こえた」というふうに、一旦意識してから、そこでおしまいにして切ってしまう。けっして、「話、聞こえた」の後、「どんな話か」という感じで、連想していかないように注意する。
ラベリング・ウォーキングの実践です。うちこは坐ったりゆっくり動いているときの「蚊」がまだダメ。「血、吸われてる」というわけには、なかなかいかない。ハエは平気なんだけどな。
さて、この本の読みどころはここからです。
<141ページ スピリチュアリティ文化の「闇」 より>
このようなスピリチュアルブームのスピリチュアリズムも、心のレベルを超えた意識の帯域や、神霊といった目に見えない存在や力、人生の切実な実存的意味を、その他のスピリチュアリティ文化と同様に対象としているので、たいへん大きな危険性を孕んでいる。
まず、生活上のいろいろな問題の原因を、すべて目に見えないものに転嫁してしまう、という点が危険である。これは、思考停止した、無責任な意識を助長することにつながる。何か問題があっても、「スピリチュアル」だから大丈夫、「スピリチュアル」だから自分に責任はない、というわけである。
(中略)
スピリチュアルブームとは、目に見えないものや非合理的なものという広義の宗教的なものに興味があるとはいえ、宗教には向かわない人たち、つまり宗教難民の行き着いた先である。かつては宗教で救済されていた多くの人たちが、現代では、宗教ではなく、スピリチュアリティに救いを求めているのである。「溺れる者は藁をも摑む」のである。
これが、スピリチュアリティ文化の闇の部分である。このように、現代のスピリチュアリティ文化にはいろいろな問題が山積しているのである。
「生活上のいろいろな問題の原因を、すべて目に見えないものに転嫁してしまう」。ここです。
<145ページ スピリチュアリティ文化の背景 より>
このような先の見えない不安の時代を、人間関係や個人の実力といった世俗的な要素だけで生き抜いていくことはたいへん難しい。そこで、人生の苦難や心の空しさに直面すると、科学技術によって「世界が操作できる」という観念を応用して、神仏や霊という見えない力=「スピリチュアル」を使って、不確実な自分の現実と自分の運命をなんとかして操作し、自己実現したいという欲望が生まれてきたのである。
以前「不謹慎」という詩を書きましたが、ここで語られていることと同じようなことだ。
<190ページ 旅がもたらす大きな意識の変化 より>
知らない土地に行くと、その土地固有の気候、土地の力、人や食べ物や街の匂い、服の色やデザイン、建物、人の歩き方、話し方、もちろん言葉(方言や外国語)も、何から何まではじめてで、いつもと違うことだけで充たされている。
(中略)
こうした状況では、自分の意識の中に、もうひとりの「高次の自己」が生まれやすい。
なぜなら、言葉を含んだ表層意識が、いつもと同じようには機能しないからである。土地の人からすれば、異人、外国人という属性があるが、自分の意識としては、まずは透明人間になったかのようである。そうした意識は、属性のない純粋な自己のイメージを生み出す。このイメージが「高次の自己」となるのである。
(中略)
言ってみれば、知らない土地を歩くという行動は、坐禅をしているのと同じような効果を意識にもたらすのだ。表層意識の心の波立ちに深層意識が影響されにくくなっており、剥き出しの純粋な自己としてあるので、私たちは、自分と他人の境界がぼやけてきて、自分と他人の一体性の意識という、魂のレベルの第一ステージに入っていくことができる。だから、私たちは、そうした旅の過程では、他人に対していつもとはまったく違ったかたちで、優しくなれるのである。
そう、旅の醍醐味はここ。やさしさにもいろいろあって、都度「なにがやさしいということなのか」について考えさせられ、「やさしいことと、オープンマインドであることの違い」に直面し、まるで自分のこころを開くエクササイズのよう。
読めばわかりますが、現在のブームに対する著者さんのスタンスはもっとハッキリ示されています。ここに転記するとそういうのが好きな人の琴線に触れることもあると思うので、気になる人は読んでみたらよいと思います。
(女子がこの本を読むと「ヨーガでこんなに身体機能・生活が良くなった」という男性的な記述にちょっとヒくところがありますが、そこは軽快にスルーして)