うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

テレビは見てはいけない 脱・奴隷の生き方 苫米地英人 著

この著者の本を読むのははじめて。
読んでみたら、心理学や事件、カルチャーの実例といったりきたりしながら進行する感じが、内藤景代さんの「BIG ME 大きな自分に出会う ― 若者のための座標軸」を読んでいるときの感覚に似ていました。


<59ページ メディアは株式上場してはいけない より>
 資本主義の世の中である以上、新聞は部数が売れてこそ経営が成り立ちますし、テレビも視聴率を追求するのは致し方ありません。しかし、それによって中身が劣化してしまっては本末転倒。そこで大事なのが、メディア企業においては経営と編集を完全に分離すること。
 編集・制作スタッフが視聴率や売上を考えなくてもいい体制をつくるのが、経営者の役割なのです。
「視聴率が取れない、部数を伸ばせない制作の人間はクビ」との経営方針でいるかぎり、経営と編集の分離はできません。制作者が自由裁量で編集できる権利が守られていなければ、メディアはその使命を果たすことはできないのです。

このバランスは、いつも仕事をしながら考えます。内容を承認する立場にある人は、「そこに人の手が入る意味」を正常化(清浄化・整理整頓)のためであることを忘れてはいけないのだけど、「売上げアップ」をモチベーションに紐付けた瞬間からおかしくなってしまいます。



<111ページ ホメオスタシスとコンフォートゾーン より>
 ルー・タイス・メソッドの考え方の中心には、「自己評価の肯定」があります。私たちは「自己評価」の概念を二つに分けて、それぞれ「エフィカシー」(efficacy)と「セルフエスティーム」(self-esteem)という言葉で呼んでいます。
「自分の能力」という意味あいが強いのがエフィカシーです。エフィカシーとは、「自分の能力に対する自己評価」という意味です。どんなことでも努力をともなう物事に取り組む前には、「自分にはそれがやれる」との確信がどれくらいあるかが重要。その自信があるかどうかが、目的達成の可否を左右します。
 それに対して「自分の地位やポジションに対する自己評価」がセルフエスティームです。「自尊心」といいかえてもいいのですが、「外部から見たときに、自分は一人の人間として尊重される存在である」という感覚が該当します。
 二つの単語に分けていますが、どちらも同じくらいのバランスで保持しているのが重要です。この二つの自己評価をいかに高く維持するか、そして高い自己評価をもつ「現在の自分」に満足せずに、さらに「未来のより成長した自分」をいかにリアルに感じてセルフイメージをつくりあげていくか。それこそがルー・タイスと私が構想する「PX2」「TPIE」の核心になります。
 そのための具体的な方法として、「アファメーション」(affirmation=自己を肯定する言葉)の設定や、セルフトーク(自己の無意識への語りかけ)など、さまざまな細かいテクニックがありますが、大切なのは、いかに臨場感を持って具体的にイメージするかです。
 そのイメージを可能なかぎり強くリアルに脳内に描くことができ、無意識のレベルで自己イメージと同一化することができれば、自然と自分の無意識がそのイメージに現実の自分を近づけていこうとします。
 なぜなら現実の自分とイメージのあいだにギャップがあれば、人間はそのギャップを埋めるために「ホメオスタシス」(恒常性維持機能)が働くからです。

ああここが違いか。と、ここまで読んでやっとわかりました。



<153ページ マナー教育は正義の名を借りた「奴隷化」 より>
「自分が愛されるよりも他人を愛せ」という考え方はとてもすばらしい。しかしその言葉が、自分よりも上位の人間から強制された場合、それは「自分に服従せよ」という意味になります。家庭に入って夫と子どもを愛するというのも、ほんとうに自分が欲する生活であればよいのですが、他人に強制されるものではありません。

(中略)

 ですからまず、何かしら他人に「こうしたほうがいい」といわれたら、それがほんとうに自分のしたいことかどうかを考えてみるべきです。その課程を経ずに盲目的に受け容れていると、知らず知らずのうちに奴隷状態に置かれる危険性があります。
 さらに問題なのは、そうした奴隷状態がむしろラクになってしまうことです。ほんとうはつらい毎日なのに、それがコンフォートゾーンとして定着してしまい抜け出せなくなっている人の姿は、朝の通勤電車に乗ればそこかしこで目にすることができるはずです。
 大前提として、コンフォートゾーンは他人に選ばせるのではなく、自分で選ぶことです。つねにそのことを念頭に置いておくと、人生が少しずつ自分のものになっていきます。

「気持ち悪い」ことくらいは自分に対して自分の言葉で説明し、意思表示できないとですね。



<172ページ 臨場感を感じる三つの要素 より>
 人間が臨場感を高く感じるための要素には、大きく三つあります。
 一つめは「プレゼンス感」。
 プレゼンスとは、日本語でいえば「存在」という意味です。いかに現実にそこに存在しているように感じるか。その度合いが強ければ強いほど、臨場感は高まります。
 映像として見える範囲は広ければ広いほうがいいし、解像度も高ければ高いほうがいい。いまのところは目の前にある現実世界ほど高いプレゼンス感を生み出す映像機器はありまえんが、先ほどもお話したとおり、もし脳に直接イメージを送り出すようなマシンが発明されれば、その限りではなくなります。
 二つめは「知的整合性」です。
 仮想世界においても、私たちが慣れ親しんでいる重力や慣性の法則といった基本的な力学法則や、物理空間の整合性が保たれている必要があります。放り投げたリンゴが空中に静止しているような空間に臨場感を感じることはできません。現実世界で獲得した自分の記憶や知識ときちんと整合する物理空間がないといけないのです。
 三つめが「操作参加性」です。
 自分が働きかけることで対象となるものを動かしたり、影響与えることができるかどうか。一方通行ではなく双方向であるかが大切な要素となります。自分がしゃべったことに対して相手が反応して会話をしてくれると、臨場感は一気に高まります。
 寝ているときに見る「夢」を考えてみればわかりやすいでしょう。リアルな夢を見ているとき、人間はそれが現実かどうか区別がつきません。リアルに感じさえすれば、現実の物理空間での出来事なのか情報空間での出来事なのか、人間の脳にはその差が判別できないのです。

ここは、たいへん興味深く読みました。
継続的な身体的実践のない生活には「知的整合性」の比率を下げて、頭のなかだけで完結する怖さがある気がしています。
自身の人生に「臨場感」を感じられなくて、情報を貪るサイクルを生み出さないように。
「操作参加性」を巧みに演出するおもちゃ(SNS)で心のバランスを崩さないようにしなくてはなりません。



<183ページ 精神世界にも浸食する差別のシステム より>
 差別という行為は、他人を自分とは違う存在として排斥することです。
「自分と同一でないものを排除する」のは、人間の本質ではなく動物の本性です。野生動物は自分たちの身を守るために、仲間どうしで身を寄せ合って生活するようになりました。天敵に独りで立ち向かうより、集団で戦ったほうが種として生き残る可能性が高まるからです。だから動物は、自分と同じ種の動物を仲間だと感じ、親愛の情を抱くようになったのです。
 こうした進化は、動物が周りの環境に合わせることで身につけていった「最適化」の結果です。臨場感空間の共有に失敗した動物は、この「最適化」ができずに滅んでいったのです。
 動物の進化の頂点にいる人間が、臨場感空間を共有して「空気を読む」動物であることは当然のことなのです。
 しかし人間を人間たらしめているのは、物理的な臨場感空間に縛られずに、精神世界で自由を享受し、またそこでも臨場感空間を共有できることです。物理的な空間を超越した抽象空間でなんらかの価値を感じ取り、自分以外の利益に対しても意義を感じることができるのが、人間の人間たる所以なのです。
 つまり、他人の強制ではなく、みずから進んで「自分のためではなく他人のために尽くす」ことが、人間の本性なのです。

ここに着地するなんて、びっくり。
心理学的に分解しまくった後で、カルマ・ヨーガの話へ移っています。


副題の「脱・奴隷の生き方」がよいです。
カルマ・ヨーガって、奴隷になることではないから。


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