ヨガのなかにある教えについてここに何かを書くときや対面で話すときに、いつも気をつけていることがあります。それは「射幸心を刺激しない ←(でも)→ わくわくする」のグラデーションの見極めです。
よくある広告表現規制の定番に、こんなフレーズがあります。
投機心、射幸心を煽るような表現
平たく言うとギャンブル屋さんの広告は載せませんよということなのだけど、いまはモノよりもコトを買う時代。パチンコや競馬じゃなくても投機心や射幸心を煽るようなフレーズはあちこちにある。自己啓発書がずらーっと並ぶ書店の棚だって、見ているとなにかが麻痺してくる感覚がある。
「月額〇千円でやり放題」など、一回の経験価値について考える機会を与えないサブスクリプション(定額制)の機会商品も増えて、この判断の境界はどんどん曖昧になっています。
ここ数年増えてきたサロンも同様で、それはオンラインでもオフラインでも、その空間への参加権利が所属意識を満たしてくれる。有名人がオーナーであれば栄光欲も満たされる。絶妙なバランスで成り立っています。
栄光欲はさておき所属意識は生存欲求により近いもので、刺激しているのは「社会的に死にたくない」というマインド。これは精神のデリケートなところに踏み込みすぎではないか。わたしはたまに、そんなことを思います。
その種のマインドへの踏み込みを嫌悪感とともに「宗教ぽい」という表現で揶揄する人の気持ちもわかります。でも実際に友人がそのようなものに大金を投じているときには、その言いかたではまったく伝わらない。
これについて、7年前に当時の自分の言葉で書いたことがあります。
わたしはこのことについてずっと考えて続けていて、わたし自身の「思い」は以下のように昨年書いています。
自尊心のデリケートな部分への踏み込みについて境界を細かく見ていく。わたしは中年になってやっと、道徳観というのはこういう思考の筋トレで養われるものではないだろうかと自分で考えるようになりました。
自分の全身で感じて動いて考える。この思いを文章で伝えるのは至難の技だから、読んで気づいてくれる人がいるのはとてもありがたいことです。
先日初めて九州でヨガクラスをしてきましたが、そこで出会った人たちを見て、ああここにも仲間がいると感じて帰ってきました。ひっそりとクチコミをしてくださるかたもいて、ゴソゴソ・モゾモゾ・ニヤニヤしながらの出会いと再会。その前に行った広島も似たような感じがずっと続いていて、ここ数日の移動中にさまざまなことを考えました。
わたしはわかりやすくポジティブなフレーズをぽんぽん出せる人間ではないけれど、その割り切れなさが伝わっていると感じられる瞬間が練習中にあって、ほんのりと光を感じて帰ってきました。
わたしはふつうに考えたら友人知人に勧めにくい、いまひとつメリットの打ち出しにくいヨガ講師だと思うのですが、それなのに人づてでひっそり繋いでいただいていることにも驚きました。
おいでいただいたみなさん、どうもありがとうございました。とてもうれしかったです。