うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

秘められたインド(前半) ポール・ブラントン 著

先月の日記に、「集中力を要される本が3冊ありました」と書いきましたが、そのうちの最後の一冊がこれです。
著者の旅の後、1943年にイギリスで出版されたものの翻訳本です。沖先生がインドでいろいろ体験されたのと同じ時期(参考「ヨガの楽園 秘境インド探検記」)。

ずいぶん前に読んだあと、どのような形で紹介したらよいのかと考えあぐねておりました。この本は、旅行記なんです。そこで出会う様々なヨギとのエピソードを綴りながら、ラマナ・マハルシ師との出会いがそのメインとしてズドーンと2回出てきます。でありながら、この人は本当にシンプルに旅人としてスタートしているので、ある意味とってもニュートラルな感覚。「こういう旅をすると、あやしい人にもいっぱい出会うわけよ」というスタンス。ここが、この本のよいところ。

訳がちょっと独特な倒置をすることがあって、たまに「この発言の主語は誰だ?」と迷子になったりします。そこがちょっくら読みにくい。原文がこういう雰囲気なんだろうな、と推測して読むことができる人にはよいのですが、こういう訳本に慣れていない人にはちょっとわかりにくいところがあるかもしれません。


全般、おもしろいです。随所に出てくる「めんどくせーなーこいつ。あんまり関わらないでおこっと」みたいなニュアンスなどがリアルで、「あ!ここにもいたな。沖先生が書かれていたたようなマジシャン系ヨギ」とか、そんな楽しみ方ができます。そういうのが、きれいに訳された文章の中でも見え隠れする。そこが面白い。
インドには、不思議なことしてお金儲けをしている人が、いっぱいいるんじゃのう……っていうのがリアルなんだけど、そのなかに「オーロビンドさん以外にも、こんな素敵な人がいたのね」なんて、あまり知られていない人も登場する発見がある。インドを神秘的に丸呑みしない読解力が必要かもしれません。


長いので前半・後半に分けます。分けるポイントは、やっぱり両方にみんなのアイドル、ラマナ師が出てきたほうがよいかな…ということで、初回にラマナ・マハルシ師と著者さんが出会う第9章までを境界線とします。(全17章あります)
そして、いつもの段取りに入る前に、今回は各章のお題目と、第三章以降に登場する主な登場人物のメモを先に紹介しておきます。「あるヨギの自叙伝」の感想を書いたときに、人名記録しておいてよかったわぁ、と思ったので。■のあとが、人名です。(青文字)


●序文 (サー・フランシス・ヤングハズバンドによる序文)
●第一章 ここで読者にご挨拶をする
●第二章 探求への序奏
ここまでは、こちらのサイトで内容がそのまま読めます。


そして、以下はうちこピックアップ。


●第三章 エジプトから来た魔法便い
■マハウド・ベイ(いろいろ当てちゃう人。読心術師)

<40ページで、著者は以下のように書く。>
私はまた、神智学協会を設立した謎のロシヤ婦人ヘレナ・ペトローヴナ・ブラツヴァキーが五十年前に、一寸それに似た現象を演じたことを思い出す。

スピリチュアルに対して変に前のめりでない著者さんなんです。そこが、いい感じです。



●第四章 救世主に会う
■メーヘル・バーバー のちに14章にも登場。
■ハーズラート・バーバージャン(回教の女ファキール・托鉢僧)
■ウパーサニ・マハラージ(メーヘル・バーバーの師)

<51〜53ページ要約 メーヘル・ハーバーの経験>
かれはある宵に学校から帰る途中、ひとりの回教の女ファキールに出会う。彼女の名はハーズラート・バーバージャン。百歳を越えているという評判だ。彼女はかれの両手を握り、そのひたいにキスをした。
その後かれのこころの働きが次第に弱くなり、半ば白痴となる。
メーヘルはこれらの変化の原因はあのキスであると信じていたので、あの老婦人のところへ行って将来についての助言を求めた。彼女は、霊性の教師を見出せ、と指示した。
ある日、彼がウパーサニ・マハーラージに会ってみると、彼は、師を見つけた、と感じた。彼は、その師のもとで修行を続けた。
ある日ウパーサナ・マハーラージは、自分はメーヘルを自分の神秘的な力と知識の霊的相続人にしたと告げ、最後に、驚いている若者たちに向かってメーヘルは霊的に完成されたのである、と宣言した。
 この神秘的な旅行の数年後に、メーヘル・ハーバーは奇妙な教育施設をはじめた。

メーヘル・ハーバー物語、の一部。


<47ページ 4章 救世主に会う より>
(筆者とメーヘル・ハーバーとの会話)
「インド ── あなたのお国 ── はどうなるのですか?」
「インドでは、有毒なカースト制度が根絶され破壊されるまで、私は休まないでしょう。インドは、カースト制度の設立によって諸国の下位にに立つようになりました。アウトカーストや低カーストたちが挙げられる時、インドは世界の強国の一つになるでしょう」
「それで彼女の将来は?」
「欠点を持ちながらも、インドはやはり世界中で最も霊的な国です。将来は全ての国家の道徳の指導者となるでしょう。すべての偉大な宗教創始者たちは東洋で生まれました。また諸民族が霊性の光を求めて行くべき先も東洋です」

彼女=インド です。ここだけ抜き出すと聖者との問答のように見えるかもしれないのですが、旅の間に起こる「さて、この人。ホンモノ? ニセモノ?」みたいな感じが、ちょっぴりサスペンスっぽいノリなんです。この本。


<61ページ その後、筆者がハーズラート・バーバージャンに会う場面>
彼女は老いた頭を此方に向け、骨と皮の手をさしのべて、私の手を取る。その手を堅く握りながら、俗を離れた眼でじっと私を見つめる。
(中略)私は、彼女の凝視が自分を射ぬくような感じを受ける。それは怪しい感覚である。私はどうしてよいか分からない。
 ついに、彼女は手を引込め、数回自分の額をなでる。それから、私の案内者の方に向いて何ごとかを言う。
しかし地方語だから私にはその意味が分からない。
 かれは通訳をささやく──
「かれはインドに呼ばれたのだ、そしてじきに、かれは理解するであろう」

「彼女の凝視が自分を射ぬくような感じを受ける。それは怪しい感覚である。」とか書いていながら、その後この著者さん「インドってやっぱり神秘の国!」的なありがちな精神的逃避トラップに絶対溺れたりしない。その安定感が、すごくいい。



●第五章 アディヤル河の隠者
■ブラマースガナンダ(その後もしばらく一緒に旅をするヨギ。通称「ブラマー」)

<67ページ 出会いの場面>
「あなたのヨガの方法についてもっと話して下さい」と私はかれに頼む。
「私の師はヒマラヤ山中の無蓋の場所に、身を護るものといえば茶褐色の衣一枚だけで、雪と氷に囲まれて暮らして来ました。かれは、水は忽ち凍るほどの寒い場所に数時間もすわり続けていることができます。それでもかれは何の苦痛も感じないのです。このようなのが、私たちのヨガの力です」

このブラマーさんは、なかなかおちゃめなんです。


<80ページ さらにつっこんでいろいろ聞いていく場面>
「でも、なぜこんなに身体をねじったり曲げたりするのですか」と私は反論する。
「さまざまの神経中枢がからだの中全体に散在していまして、それぞれの姿勢が、異なる中枢に作用を及ぼすのです。神経を通じて、われわれは肉体の器官または脳内の思いに影響を与えることができます。ねじることによって、そうしなければ影響の受けられないような神経中枢に達することができるのです」
(中略)
「両者(西洋人の筋トレとヨガ)の主な違いは何だと思いますか」
「われわれのヨガの行法は実は姿勢であって、姿勢が決まったあとにはそれ以上の活動は要求しません。活動的になるためにより多くのエネルギーを求める、ということはせず、耐え忍ぶ力を増そうとします。ね、私たちは、筋肉の発達も役に立つではあろうけれど、もっと大きな価値があるのは筋肉の背後にある力だ、と信じているのですよ。ですから、もし私があなたに、特定の方法で両肩を下に逆立ちすると脳を血液で洗い、神経を休め、ある種の欠点を除くことになる、と申し上げると、あなたは西洋人でいらっしゃるからおそらく、その行法を一瞬間行なっては大急ぎで数回おくり返しになるでしょう。あなたは、この行法のためにはたらかされる筋肉を強化なさるかも知れませんが、ヨギがかれ自身のやり方でそれを行なうことによって得るような利益は、ほとんど獲得なさらないでしょう」
「それはどいういうことなのでしょうか」
「かれはゆっくりと、慎重に行ない、それから何分間かの間、できる限り確実にその姿勢を保ち続けます。私たちはこれをオール・ボディ・ポスチュアと呼んでいるのですが、お目にかけてみましょう」

→といって、バッタのポーズ→フルバッタの身体描写へ(笑)。
「活動的になるためにより多くのエネルギーを求める、ということはせず、耐え忍ぶ力を増そうとします」とか、もうすごくちゃんと模範解答をしてくれるんだけど、フルバッタを見せてくれちゃう。「だから、そこに興味持っちゃうから、あんまりこう言われてやるのはだめなんだけどなぁ」という葛藤とサービス精神が、おちゃめ。



●第六章 死を克服するヨガ
引き続きブラマーさんとの章。めちゃくちゃまっとうな、ガチンコのヨギなのですが、親しくなるにつれ、どんどんしゃべってくれる過程が楽しい章。
■イエルンブ・スワミ(ブラマーの師 名前の意味は「アリの先生」とのこと)
■ベシュダーナンダ(イエルンブ・スワミ の兄弟弟子)

<88ページ 引き続きブラマーさん>
「私たちの師たちは呼吸の力の秘密を握っているのですよ。彼らは、血液と呼吸とのつながりがどんなに密接であるかということを知っています。心もまたどんなに呼吸のあとについていくものであるか、ということを理解しています。そして、呼吸と思いとの働きを通してどのように魂のめざめをうながすことができるかという、その秘密も心得ているのです。呼吸は、肉体の真の維持者であるところのもっと精妙な力の、この世界への現れに他ならないのですよ。眼にこそ見えないけれど、生命諸器官の中に隠れているのはこの力です。それが肉体を去ればつづいて呼吸はとまり、死がやって来るのです。(以後略)」

前半でわたしはブラマーさんのとりこになりました。



●第七章 もの言わぬ賢者
■マラヤカル(「もの言わぬ賢者」なので名乗らないヨギの師の名前)

<114ページ 通訳を介した筆談の場面>
(会話は筆者の質問から)
「しかし、どこを見たらよいのでしょうか」
「あなた自身の自己をお探しなさい。あなたは、その中深いところに隠されている真理を知るはずだ」という答えが来る。
「しかし、私は無知という空虚しか見出しません」と私はなお主張する。
「無知は、あなたの思いの中にだけ存在する」と、かれは簡潔に書く。
「お許し下さい、師よ、でもあたなのお答えは、私を新たな無知の中に投げ込みます!」
 賢者は私の蛮勇にあって本当に微笑する。かれは一寸の間ためらい、眉を寄せ、それから書く──
「あなたは自分の現在の無知を自分であると考えてきた。今度は、退いて叡知を自分であると思え。それは自覚と同じものである。思考は、人を山のトンネルの闇の中に運び込む牛車のようなものだ。それを引き返させると、あなたは再び、光の中につれ戻されるのだ」
 私は、まだ少し私を迷わせるかれの言葉を沈思する。これを見て、賢者は便箋をさし招き、鉛筆をしばらく空中に浮かせていた後に、こう説明する──
「この、思考の後方への転回が、最高のヨガなのである。今度は分かったかね」
 ごくわずかな光が、私の上に射しはじめる。私は、このことを黙想する十分な時間が与えられれば、われわれは理解しあうことができるだろう、と感じる。それだから、この点はあまり追求しないことに決める。

ラマナさんだけでなく、このようなヨギがちょいちょい登場するんです。そしてこの著者さん、「出会う順番、流れ」がことごとく、いいんですね。



●第八章 南インド霊性の頭首と共に
■スブラマニヤ(カーストの名は「アイヤー」 "師のところ"への案内人として登場)
■ヴェンタカラマニ(作家/マドラス大学の評議員の一人。一緒に旅をする)

<126ページ ヴェンタカラマニについての描写>
 ヴェンタカラマニは、第六十六代シュリ・シャンカラが持つ目ざましい能力の物語によって、かれの叙述に花を添える。かれがかれ自身の従兄弟を癒したという、奇跡的なヒーリングの報告がある。従兄弟はリューマチで足が立たず、多年床につき切りだったのである。シュリ・シャンカラがかれを見舞い、身体に手を触れる。すると三時間経たぬうちに、病人は寝床から起き上れるほどによくなる。そして間もなく全快する。
 更に、猊下は他者の心を読む力も具えておられる、という確言も、加わる。とにかく、ヴェンタカラマニはこれを完全に信じている。

ここも、著者さんのニュートラルなスタンスが、いいですね。そしてその後、シュリ・シャンカラからマハーリシー(ラマナ)の存在を教えられ、「マハーリシーに会うまでは南インドを離れない、という約束をして下さい」と願われて、行くという展開になるんです。
わくわくしますね! 次、いよいよですよ!



●第九章 聖なるかがり火の山
■ラマナ・マハルシ

<150ページ より>
「師の助けによって何らかの悟りを得るには、どの位時間がかかりましょうか」
「それは全く、求道者の心の成熟度によります。火薬には一瞬のうちに火がつくけれど、石炭がもえるまでにはかなりの時間がかかるでしょう」
 私は、この賢者は教師たちおよび彼らの教え方の問題を論じることを好まない、という、奇妙な感じを受ける。
(中略)
「マハーリシーは世界の将来についてご意見をお聞かせ下さいませんか。われわれは危険な時代に生きているのですから」
「なぜあなたが将来のことを心配しなければならないのですか」と賢者は詰問する。「あなたはおそらく現在のことも知らないのでしょう。現在によく気をおつけなさい。そうすれば未来は未来が自分で気をつけます」

「火薬には一瞬のうちに火がつくけれど、石炭がもえるまでにはかなりの時間がかかるでしょう」。はい、ラマナ節。


<162ページ より>
「瞑想のために時間をとっておく、などというのは、この道でのまったくの新参者だけがすることです」とかれは答える、「進歩しつつある人は、仕事をしていてもしていなくても、次第に深くなって行く至上の幸福を楽しみはじめます。手は社会の中にあっても、頭は孤独の中に冷静を保っています」
「では、あなたはヨガの道はお教えにはなりませんか」
「ヨギは、牛飼いが棒で牡牛を追うように、自分の心を目標に向かって追い立てようとします。しかしこの道では、求道社は一にぎりの草を差し出して牡牛をおだてなければなりません」

「手は社会の中にあっても、頭は孤独の中に冷静を保っています」
わたしはヨガにのめりこむ前の段階で「ヨガをすることが目的になってはいけない」というのを、ずばりないい方ではないのだけど師匠から教えられたので、こういうところがグッときます。


以上が前半。(続きは、こちら
そしてインドって実際に行ってみると土台が哲学の国だから、哲学的なことを言う人とか、日本ではトンデモなノリなこととかを餌に近づいてくる人がたくさんいる。そこで、ちゃんと日本人のままニュートラルな姿勢と正しい予備知識があったら嫌な思いをする確率が下がると思うのですが、旅というものはそういうものを奪ってしまう魔法がかかる。
そこでがっつり修行までやっちゃう人ならば、それはそれでよいのですが、なかなかそこまでに至る人も少ない。でも修行しちゃったのが沖先生で、そこまでの修行はしないまでも、ニュートラルにバランスしながら探訪しちゃった人がこのポール・ブラントンさん。そんな印象を持ちました。


▼おまけ:こんな下まで読む人は、これが参考になる
不滅の意識―ラマナ・マハルシとの会話
あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
ヨガの楽園 秘境インド探検記