うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

静坐のすすめ 佐保田鶴治/佐藤幸治 編・著

静坐のすすめ 佐保田鶴治/佐藤幸治 
共著ですが、全体の構成ディレクション佐藤幸治氏、ヨーガ部分と岡田虎二郎氏の唱えた静坐の部分を佐保田博士が担当、といった感じです。佐保田博士についてはこの日記でも著書の感想を何度か書いているので紹介は割愛するとして、佐藤幸治氏について補足しておきましょう。ものすごくいいコンビなので。

同性同名の人が多いベーシックな苗字と名前なのですが、この佐藤幸治氏は「禅のすすめ」「心理禅」などの著作を残している方です。がっちりしたプロフィール情報を見つけられなかったのですが、「神谷光信のブログ * フォントネー研究院」というサイトに情報記載が。引用させていただきます。

<est について(その94)佐藤幸治と「プシコロギア」 より>
1905年山形県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。心理学専攻。京都大学精神医学教室嘱託、第三高等学校教授を経て、京都大学教育学部教授。文学博士。国際真理学会連合運営委員。1957年「プシコロギア 東洋国際心理学誌」創刊。主幹として東西文化交流に精進。1955年から1年間、米欧印等研究視察。1960年5月から4ヶ月間、米欧豪東南アジアに禅と心理学等の問題を提げ講演行脚を行う。こうした海外での講演は100回を超えた。1971年死去。

この本は、構成がブログみたいな印象。各トピックをそれぞれが担当するような感じになっていて、メイン進行をする佐藤氏のヨーガ・ゲスト的に佐保田博士が登場するかと思いきや、結局ノリノリで混ざっちゃった、といった流れ。珍しい構成の本です。佐藤氏担当部分はそれぞれのトピックに本の引用を多数用いており、そのなかでさらにいろいろな人の「坐・談」が展開される。マトリョーシカのように、「お。また中から人が出てきたよ・・・」というのが続く。ブログ構成を先取りしすぎたような本です。
そんなわけなので、この本については数回に分けて紹介します。トピックを分けて紹介したくなるような学びがいっぱいでしたので。日本の歴史の勉強にもなっちゃう展開です。今日は、おなじみ佐保田博士の語る「ヨーガの坐」の部分。ちなみに博士はちょっと出張モード。オヤジギャグはありませんでした。いつものように、何箇所か紹介します。

<130ページ インドの静坐(ヨーガ) ヨーガとは何か? 現代のヨーガ より>
 インドで、ヨーガと名のつく静坐・瞑想の形式が現われてくるのは、おそらく仏教の出現よりも二〜三○○年以後のことだろう。起源四〜五世紀頃になって、ヨーガの本流ともいうべきラージァ・ヨーガの根本教典であるヨーガ・スートラがまとめられる。この時代になると、ヨーガの本流は、独自の哲学思想を背景とし、立派な組織をそなえた行法に成長していた。このいわゆるラージァ・ヨーガの行法の本命はココロの修練にある。その行法組織のなかには、カラダやイキの修練の部分も含まれているけれども、主要な部分はココロの修練から成っている。
 ところが紀元十世紀を過ぎた頃から、ヨーガ派のなかにカラダやイキの修練に関する研究が起こってくる。この方向へもっぱら発達して一派を成すに至ったのがハタ・ヨーガである。この一派では、ココロの作業によってではなしに、もっぱら体操と呼吸修練によって、ヨーガの根本目的であるゲダツ(解説、人間の最高自由)に到達しようとした。
 ラージァ・ヨーガとハタ・ヨーガとはたいへん違った形のヨーガであるけれども、ハタ・ヨーガは元来ラージァ・ヨーガの一部分が過大に発達したようなものであるから、のちにはラージァ・ヨーガと合流して、ラージァ・ヨーガの予備コースと見なされるようになる。ジニャーナ・ヨーガとラージァ・ヨーガとは、その背負っている哲学思想がちがっているのであるが、ジニャーナ・ヨーガの理論背景であるヴェーダーンタ哲学とラージァ・ヨーガの背景であるサーンキア哲学とは、元来バラモンの哲学として根本的には統合可能なものであったので、それぞれの哲学を理論背景とする二つのヨーガ派は、いつともなく混合せられてゆく。ラージァ、ハタ、ジニャーナの三種のヨーガの統合されたものがヨーガの本流を形づくるようになる。

ココロの修練→カラダ・イキの修練 のヨーガ流れと、それにくっついてくる哲学の説明として、簡潔。



<139ページ ヨーガの体操 座法 蓮華坐 より>
だいたいは禅宗の結跏趺坐の坐り方と同じであるが、ただ、充分に深くアシを組んで坐る点と、シリに布団をあてがわない点とが、結跏趺坐とはちがっている。

ヨーガの結跏趺坐はがっつりだもんなぁ。



<154ページ ヨーガの瞑想法 静慮(meditation)より>
 理論的にいえば、静慮と凝念とではココロの作業の方向が全く逆である。凝念はその思念対象をできるだけ単純化し、単一な観念にしぼることを主眼とする。つまり、凝念の本質はココロの働きの集約にある。これに対して静慮の場合は、ココロの働きの拡大がその本質をなしている。

どっちもそれぞれに、落ち着きますね。



<159ページ むすび ヨーガの哲学 より>
 ヨーガは仏教と同様に元来は人間心理の深い内省的観察にもとづく教説であって、その理論背景として哲学思想をもっている。この哲学的背景はサーンキア派の二元論哲学とヴェーダーンタ派の一元論哲学とである。サーンキア派の形而上学はもともとヨーガ的心理学から芽生えたものであるから、早くからヨーガ派と結びついていた。しかし、バラモン哲学の正統であるヴェーダーンタ派がインドの哲学界を風靡するにつれて、ヨーガ派の思想もいつしかヴェーダーンタ哲学にその理論根拠を仰ぐようになる。

この巻いて巻かれて共存、の感覚が、インドのよいところだと思う。「神様だらけの国だからねぇ〜、うち」という感覚が。「派閥作って当たり前」「それって派閥?」とつい解釈しがちな文化に慣れていると、はじめは混乱しますね。



<227ページ 静坐の原理と手びき(佐保田博士) 静坐の三要素 より>
坐法のほかに特別な体操を利用するのは、静坐に成功する近道である。この種の体操は単なる筋肉運動とはちがって神経を和らげととのえることを主眼としている。外形は体操であっても、内実は静坐の坐法と同じものなのである。つまりは、坐法の展開されたものにほかならない。こういったものが、ヨーガの体位法や禅宗のきんひん(経行)や中国の太極拳などである。これらの体操はまた健康法として独立の価値をもってもいる。

でたー。きんひん(経行)。ラベリング歩行のことね。これ通勤でやると、最寄り駅から家まで1時間以上かかりそうな修行。



<232ページ 静坐と日常生活(佐保田博士) より>
 静坐に習熟し、静坐の根本をつかむことができたならば、忙しい生活活動のさなかにも静坐の心境に没入することができるようになる。このようなことを「ココロのドアをしめる」という。はげしいことばのやりとりや、つきつめた思慮のさなかに、一瞬「ココロのドア」を閉じて、瞑想の世界にはいりこむことができるならば、ココロにゆとりができて、無益な争いや、出口のないどうどうめぐりの思案に落ちこまないで、当面しているむずかしい問題の解決の糸口を見つけ出すことができよう。

会議に人が集まるのが遅いとき、やってます。「ちっ。待たせやがって」ではなく「あ、もう来ちゃったの」となる(笑)。



よそゆきの佐保田博士は、カタカナの使い方がかわいらしいわぁ〜。


▼静坐のすすめ紹介は全5回。このほかの4つ。
「修養」の第十四章「黙思」 新渡戸稲造 著(「静坐のすすめ」より)
西洋と東洋の祈りの考察(「静坐のすすめ」より)
岡田式静坐法、藤田式息心調和法、二木式腹式呼吸法(「静坐のすすめ」より)
中国の静坐、日本の静坐(「静坐のすすめ」より)


静坐のすすめ
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