うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

実践冥想ヨガ 生活編 沖正弘 著

76年に書かれた本です。沖先生の本はハズレなしなのですが、なかでもこの本は「商売」について書かれているのがよいです。
なかでも、「忙しい」という状況の利点について語られているところに共感。忙しいという字は「心を亡くす」と書くという人がいますが、「小さなことが亡くなる」「選択と集中が淘汰され、どうでもいいことに費やす時間がない」という意味ともとらえられます。
裏返して言うと、「いま考えてもしょうがないことについて、取り越し苦労をする暇がある」「人のことを悪く思う暇がある」「よくない妄想をする暇がある」「狭い範囲で想像する」。わたしが沖先生の本に共感してしまうのは、この点が大きいように思います。今日もいくつかメモしたいと思った箇所を紹介します。76〜100ページは、ライオンズと日立製作所の野球部への講義の内容です。

<22ページ 窮極の状況に自分を追い込め より>
追い込まれるとだれでも全力発揮ができ、苦しいとだれでも自分なりの知恵が出てくるものです。どん底に落ちればだれでもはい上がろうとして必死になるでしょう。これが精神統一と呼ばれるものです。保護された生活や依頼心を持っていては冥想はできません。

五木寛之さんも書いていますが、スポイルされる社会は、人間の知恵を退化させる環境。権利保護というのは、本当の意味では豊かな人間社会づくりとは逆行しているように思います。


<43ページ 商品に自分を添えることがサービス より>
販売とは単に商品だけを売ることではありません。自分を売ることです。つまり自分の心と知識と親切を商品に託して売るのです。商品に自分を添えることがサービスです。このサービスをしない者は自動販売機と同じです。

自動販売機のほうがましだよ、と思うこともあります。「あったか〜い」の「〜」の表現力以下のコミュニケーションしかできない人も少なくないような。


<68ページ 能力が生きる喜びを与える より>
 人間は、文化生活と称する不自然な生き方をしていますから、このアンバランスな生活の中でバランスを回復し、維持する能力を身につけないかぎり喜びは与えられません。自然法則とは「たえまなく変化しながら、しかも安定性を保っている」働きです。アンバランスをバランス化してしまうことが救われる原理なのです。

自然法則とは「たえまなく変化しながら、しかも安定性を保っている」。


<76ページ 悦働=仕事がうれしくて楽しい より>
人間の仕事は、お互い同士が、その仕事を通して人間になる修養のためのものです。「雇った、雇われた、上司だ、部下だ」という関係では人間侮辱です。時間と金ばかりを目的にして、できるだけ少なく働いてよけい金がほしいという心はまちがいです。
(「喜働」「謝働」ということばの説明の後に)
 これが「悦働」にまで達すると、そうすることがうれしくて楽しくてしょうがない、損も得もなく生も死もないような生き方ができます。生きることに喜びを感じ、法悦境に生きている者に、不健康や病はありません。
 大切な自分に毒を差し上げないでください。
 自分を他人扱いし、他人を自分扱いすることが歓喜冥想行法の生活のコツです。自分が自分に喜びを差し上げる努力をすることを、自己を大切にし、自己を愛し、自己を尊敬するといいます。

自分のことを突き放せるようにならなくちゃ。


<82ページ 一種類の練習ではブレーキになる より>
 自然であるためには、その一つに携わっている協力者のすべての特性を育てて、お互いが充分に協力できるようにすることが必要で、このことを総合統一といいます。この原理が事業経営の法則でもあります。
 例えば、人間の筋肉には腹や腰の筋肉のように力は強いがスピードのないものと、ひじや手首のように力はないがスピードのある筋肉とがありますから、上手にこの両者を協力させるのです。
(中略)
 また、体は、"虚"つまり力を抜いているときに力の出せる部分と、"実"つまり力のこもっているときに力の出やすい部分の二つとが協力し合っています。
 例えば、"実"の部分が腰と骨であり、"虚"の部分が筋肉と頭ですから、この虚の部分を虚たらしめ、実の部分を実たらしめる見構えと心構えの訓練が必要です。
 前者のコツ"実"が丹田に力を充実させることであり、後者のコツ"虚"が無心になること、すなわち、上半身の力を抜き去ることです。そして、この両者のバランスを保つ鍵となるのが呼吸です。自然体とはこの虚実が最高に協力和合している状態です。

野球人向けのアレンジもうまいわぁ。


<88ページ 前進して受けよ より>
 キャッチャーのいちばん大切な身構えは、拇趾に力が入り、かかとが後に強く引かれていてアキレス腱が伸びている姿勢です。受けとった球をすばやく投げるためには、強いひざの屈伸力が必要ですが、この身構えのためには、胸のはり方と腰の伸ばし方が大切です。この姿勢がスキーの前傾姿勢のコツにもなっています。

わたしは高校時代「キャッチャー」でした。胸のはり方と腰の伸ばし方は意識したことがなかったなぁ。「すぐに下半身を安定させられる(セカンド送球)、股関節の可動角度のバリエーション」を広げる必要性について、高校時代から研究してたなそういえば。


<130ページ 無い体力でやる工夫 より>
 何事も正しい型で行わないと、悪い型が癖となることに気づき、まったく一事が万事修行であり修養でした。正しい型が全身化すると、正しくやろうなどと思わなくても、そのまま正しく行えるようになるのです。

本当にそうですね。身体に習え、といつも思います。


<135ページ 無心でやる工夫 より>
忙しければ、雑念邪念にとらわれておれないのでありがたいのです。雑念邪念は無くなってはいませんが、それが邪魔になりません。持ったままで離れているというのでしょうか。しかし少しでも暇になってくると、この雑念がまたも支配しはじめます。

沖先生への激しい共感ポイント。


<150ページ 人間的無心を体得できる より>
私の友人に米粒に沢山の字を書ける人がいますが、この友人は毎日一定時間を定めて米粒をながめることを続けたそうで、ついにはあの小さい米粒が半紙大にまで見えるようになったそうです。

わたしは子どもの頃、米粒に仏像を書く中国人をテレビで見て尊敬したものですが、なるほど! キャンバスを自分で広げるのですね。月輪観みたいですね。


<151ページ 人間的無心を体得できる より>
正しい知性とは、無駄、無理のない考え方ができて、主観的にも客観的にも、部分的にも全体的にもうなづける考え方ができることですが、この人のうなづける正しく尊い考え方を邪魔するものが、自己流にとらわれた解釈の仕方です。

これは、自分の初期のヨガを思い出すたびに、反省。


218ページ 特殊能力がヨガの目的ではない より>
特殊能力は訓練の産物で、だれでも一つのことの訓練を繰り返していれば、いつかは超常能力を発揮することができるようになります。しかし、これはヨガでいう悟りとは無関係のものです。この特殊能力を有する者には、左の(下の)二つがあることを知るべきだと思います。
(1)悟りに至る訓練によって、自然に体得した人。
(2)悟りとは無関係に、ただ訓練によってテクニックだけ体得した人。
 私たちは、前者をヨギ、後者を奇術師と呼んでいます。

この定義づけ、ほんとうにわかりやすい解説です。


<219ページ 特殊能力がヨガの目的ではない より>
 体を訓練して、自由に支配するためには、相当期間の年季を入れなくてはなりません。ヨギの特殊能力者は、この事実を見せてくれました。しかし、そのヨギでも、心のコントロールはむずかしいといっていました。ヨガでは、心を自由に支配できるようになった人のことを、「ムニ」とか、「マハトマ」とか、「ヨギラジ」といいます。例えば、シャカムニとか、マハトマ・ガンジーというようにです。

「マハ」がつく人にはご用心、な側面もあるのですが、講義としてすごくわかりやすいですね。


<253ページ 身心のブレーキをとり除く より>
 第六感や予感も、対立、成否、打算を離れたところに働くものであって、この点においては、両者とともに、至純の心、ひたむきの心を必要としております。分別を超えた世界のものであることは、その境地を一にしているようですが、六感と予感と宗教心とは、直接的には無関係のものです。多くの人はこの点を間違えて、ちょっと第六感的なものが発現したりすると、功利を旨とした宗教事業をはじめてしまいます。

結局、そのときの社会に適合できなかったりしている人が、そういうことを始めてしまうのではないかと思います。自己評価の高さに実力が追いついていない感じ。


<285ページ 修行の必要 より>
 霊が発信機で、心身が受信機のようなものであって、心身の状態に応じて、そのときの波長に応じたものの影響を受けるのであると──。ですから、自分の心身の状態、程度が変わると、ちがった霊力の影響を受けるわけです。
 つまり、自分の程度が高くなればなるほど高い霊の力を、けがれていればけがれた霊の影響を受けるのです。

ここでも電波にたとえられていますね。


少しずつ見えないものの力について説明していく流れが、すごくうまいなと思います。

実践瞑想ヨガ―生活篇

実践瞑想ヨガ―生活篇


沖正弘先生の関連書籍はこちらにまとめてあります。