うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

写経とヨガの共通点

今日は写経の日。朝から等々力不動尊へ。先週高野山でも写経をしたのですが、その様子はまた別の日にお受戒のエピソードとともに高野山記としてご紹介します。
今日は写経の途中でご住職さんが登場。お正月に後ろ姿しか拝見したことがなかったのですが、とてもやさしそうな、いい感じで力の抜けたたたずまい。みなさんがイメージしやすいようにあえて書きますが、ちびまる子ちゃんのおじいさん似です。(脱力感だけが過剰イメージにならないか心配。ごめんなさい!)

そこで、とっても興味深い「墨の話」を二つ聞かせていただきました。

1)墨は、ゆっくり磨りましょう。粒子が細かく出ます。
2)今まで墨は硯に対して「まっすぐ(直角)に」と申しておりましたが、先日別のあるかた(お名前聞きましたが、失念)のお話で、「硯に対して斜めに墨を立てるほうが、接する面積が大きくなる」と聞きまして、なるほどと思いました、と。


この、2の話し方のスタンスがとっても「とらわれないノリ」で。普通の話し方で言うならば「なるほど、そっちもいいね!」と。なんでそんなにそのスタンスが「いいな」と思ったかと言うと、ヨガの世界で、やれ言い方がヨーガなのかヨガなのかだの、どのグルの方が上だの下だの、誰それは実は誰それの化身だの、それを議論するエネルギーを別のことに向けたほうが・・・と思うことがあるのですが、「お正月は神社でもお寺でも、どっちもでも、初詣に掟なし!」という神仏共存の素敵さと同じ、「いいな」という感覚。こういうスタンスに触れたとき、うちこは日本人に生まれてよかったなぁ、と思うんです。


また前置きが長くなっちゃった。ここまではまだ写経とヨガの共通点のお話ではありません。
写経とヨガの共通点について感じたのは、1と2両方とも、そこに「科学」と「物理」があることです。このブログをご覧のヨギさんのなかには、ヨガを行じながら、「物理」はよく感じている人が多いのではないかと思います。うちこ自身がわりとそこにフォーカスして書いているので。
「科学」のところは、あまり書かないようにしています。書く技術がないというのもあるのですが、読む人のスタンスによって過剰にスピリチュアルなバイアスがかかった状態で読解されると困る(「こう読み取りたい」という読み方をされても困る)のと、そこはやっぱり実践の醍醐味だから、書いてはいけないような気がしちゃうんです。あと、実際のうちこが「中身オッサン」と言われるような人間なので、文章だけで妙にムズカシイ人だと思われるとかなり心苦しい、というのもあります。
写経とヨガの「科学」的な共通点についてだけ言うと、この「墨の粒子」のお話はプラーナヤーマに通じるものがあるなぁ、と思いました。


ほかにもヨガと共通するものを感じることはいっぱいあるのですが、もうひとつ書くと、「なぜか沸いてくるあの雑念の感覚」「自分が書いているのか、書くという儀式的な状況にとらわれているのか」という意識の行ったり来たりが生じてしまうところなどは、瞑想のそれと似ています。

「身体を動かすのはなんだか照れくさいけれど、写経はやってみたい」という人には、素直に写経をおすすめします。ただ、写経の際にも、ヨガで呼吸やワキの力の抜き方を覚えると相乗効果があるように思います。(結局すすめるんかいー!)


おまけ。
今日は最後に、まだ紹介していなかった隠れ不動明王さんを紹介します。


もっと寄ってみて!



どーなのーーーー その目は。
「お不動さんが、もうちょっと、こう、なんというか、しらふの時にまた来ますね」といってバイバイするのもあなたの自由。
等々力渓谷のどこかにいますよ。探してね。