うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「硬い」の元素。「収縮残遺」

戦後しばらくたって昭和30年代ごろから、日本ではさまざまな身体論や科学的視点からの研究がさかんに発表されてきました。哲学から身体論へ及んでいくアプローチもあり、追いはじめるときりがないくらいの数の理論があります。そんなフィールドを見つつ、今年の晩春くらいから身体の癖についての学びを深めています。
以前ちらっと目にする機会があり、その研究内容に興味を持った「身体均整の科学 ボディ・メカニックス(人体力学)に準拠せる 百万人のトレーニング矯正体育」という1961年の本(残念ながら入手困難です)のなかに、「人体における12種類の体型」(もとは亀井進氏の身体均整法)というものがあります。その内容と野口整体の12種について、確認をしました。


野口整体と沖道ヨガについての学びは日々ここで書いているとおりですが、野口先生が腰椎をベースに展開をしているのに対し、沖先生は胸椎と頸椎を多く用いる。
うちこは沖先生 → 野口先生 → 亀井進先生(初登場)という順番で学んでおり、ヨガからスタートしている。野口先生の定義する腰椎ベースの体癖は、正直その短い(縦の長さの話)範囲での分類を身体で感じられない。天才じゃないから。そこでこの長谷川先生のボディ・メカニックスの考察に出会った。(二木謙三先生校閲をつとめています)この本の全体感については追って紹介することにして、今日はこの三者に共通していることについて書きます。


「身体の硬い部分」についてのこと。
今日の話はカジュアルでざっくりとしたヨガの話じゃない。「わたし体が硬いんですよねー」というような話ではなく、心のはたらきや癖と密接した「硬さ」のこと。


この本の第8項の注釈にあった内容がすごく良かったので紹介します。

本項でよく「硬くなっている」というのは、他の表現方法で言えば残余異常緊張とか、硬結を指し、これを強縮または攣縮としてもよい。強縮と攣縮は当然区別して使用されなければならないが、相当調査してみたのだが、現在我国では induration とか contraction (例えば contractured muscle)という表現方法についての統一された見解がないので、一応筋の持続性収縮状態(収縮残遺)を強縮または攣縮としておいた。


以前ここで「責任感の種類と身体の癖」について書いた。
これは完全に自論だけど、うちこはこれが、ヨガでいういわゆる「カルマ」と身体論の接点に存在するものだと思っている。
このことについて、「残」という漢字をこの注釈では何度も使っていて、野口先生と沖先生が使う「余剰エネルギー」についての表現対処と共通している。


アーサナをしていると、いろいろなことに気づく。すべてのヨギがそうだと思う。
その「気づき」について、「さて」と思ったときに、この三者の理論を総合して学ぶとものすごくおもしろいのだ。
この学びには膨大な時間を要するし、毎日がその過程のなかにあるのだけど、「ごく普通に現代社会ではたらき、考え、暮らす」という日常のなかで感じることが一番重要なものであったりする。


ヨガを学んで、「カルマ」という単語を自分なりに表現する人が増えているけれど、その粒度の細かさや深さは「そのときの、それぞれ」だ。それは学びとともに細かくなる。
過去の自分の日記を見ると、「ああこの頃はこういう粒度で見ていたんだな」と思うと同時に、「これから、もっと細かいことが見えてくるのかな」と楽しみになる。
つらいこと(それも自分の尺度だけど)があったときも、「なにか違う粒子を見る機会」と思えるのは、まさに「救い」だ。


「救い」は、自分のなかにある。


そんなことを日々感じながら、楽しみながら、学んでいます。