タイトルはヨーガバイブルの記載を使いましたが、「ねじりのポーズ」とか「マッツェンドラ・アーサナ」などと記載されることも多いです。(後ろの人を消したので、背景が不自然なの)
神経を静めたり、内臓がマッサージされたりするポーズと書かれていますが、ねじっているのは背骨。このポーズはやればやるほど奥が深くて、最近もっともコンマ数秒の過程を大事に行っているポーズです。
きっかけは、高野山のお坊さんと瞑想のお話をした際にいただいたヒント。ヴィパッサナー瞑想に「ラベリング」というのがあり、その考え方がなんとなく印象に残っていて、このポーズを行うとき、同じことをやっていることに気づきました。
ポーズは見たままですが、過程をいちおう説明しておきますと
1:片脚を寝かせ、その膝は身体の中心におく
2:もう片方の膝を立て、寝かせている膝の外側にくるぶしが来るように置く
(このとき、いつかは足の裏全体が床につけばいいな、と思いながら)
3:寝かせている脚と同じ側にある腕を天井に長く持ち上げ
(このとき、息を吸いながら体側を真上に伸ばすと良いです)
4:立てている膝を肘が越えるようにし、できれば手のひらで膝を包む
(できればでいいです。初めは肩がそっちに入らないことも珍しくないので)
(このとき、息を吐きながらおなかを凹ませると肩が入りやすいです。物理的に)
5:息を吸いながら、坐骨ともう片方の手で軽く床を押しながら、背骨と頭を真上に伸ばす
ここからが、うちこの重視するポイントです
6:息を吐きながら、下のほうから丁寧に以下の位置を順に意識し、
「背骨を」ねじっていく
おへその裏 → みぞおちの裏 → 胸の裏 → のどの裏
→ 首の裏 → 目の裏 → 頭のてっぺん
このひとつひとつを意識していく過程が、背骨の節にポストイットを貼って「ラベリング」するような感じなのです。
なんとなくねじりの気持ちよさに身を任せるうちに、胸をがばーっと開いくことで、本来ねじるべき場所の意識を見失っている人が多いのですが、この丁寧な過程はとっても大切です。
まだほかのポーズで気づいていないことがいっぱいあって、それはこのポーズでの「胸を開くこと」のような、「間違ってはいないんだけど、そこに気をとられてはいけない」ということのように思います。あわてて気づけるものでもないし、それは時間をかけてゆっくり気づいていくものなので、「次はどんな気づきがあるかしら」という毎日が、これまた楽しい。今回のように、意外なところからそんな気づきに繋がることもあるので、日常にもヒントがいっぱいあるんですよね。
こうゆうことは、仕事の場面でもときどき起こります。
逆の視点で言うと、「本来これが目的だったはずなのに、いつのまにか自分の目先の"やった感"が目的になってない?」という状況は、この「胸の開き」に置き換えられるんです。
だからなんだって話なんですけれども、人数の多い、組織が細分化されまくっているところで仕事をしていると、この「気づきの再認識をする機会」というのがとってもありがたいのです。戦うサラリーマンよりも、やわらかサラリーマンのほうが絶対に勝てる気がするのは、うちこだけでしょうか。