うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

わたしの心の脆弱性。事象を「あるがまま」に見られなくなる時のこと

先月、部屋の中にヤモリが入ってしまって、どうやって外に出したらいいのだろうと思って検索していたら、「ヤモリは家を守ると書く。縁起がいい」という情報の文字列についつい惹かれてしまいました。


その翌週は観葉植物の鉢にキノコが生えて、これはジメジメしててヤバいのかと思って検索したら「観葉植物 きのこ スピリチュアル」という関連検索ワードが出てきて、ついクリックしたくなりました。

 

ヤモリのほうは、夜に薄明かりでおびき寄せようとしてみたりしたのですが、いつの間にかどこかから外に出たようです。(ほっ)
キノコのほうは、条件反射で摘んでしまった後で「これ、また出てくるんか……」とネガティブな気持ちで検索していたので、よくあることだとわかって安心しつつ、幸運やスピリチュアルという文字列を目にした時は、一瞬「摘まないほうがよかったのか?!」と思ったりしました。

 

わたしはこういうときに、自分の心の脆弱性を感じます。インターネットに試されるわたし(笑)。

こういうことは定期的にあり、やはり以前にも書いていました。

 

 

この種の心の脆弱性については、『ヨーガ・ヴァーシシュタ』に何度も出てくる喩えが思い浮かびます。せっかくなので、この流れで紹介します。

まあちょっと読んでみてください。

 森には木々が生えている。縄で木材が縛られる。加治屋は斧をつくる。そして、生活費を稼ぐために、大工はこのすべてを用いて家を建てる。別に彼自身が家を建てたいからではない。このように、この世ではありとあらゆることが、それぞれに関わりなく独立して起こっている。カラスが椰子の木に降り立った瞬間に椰子の実が落ちたのを見て、無知な人々はカラスが椰子の実を落としたのだと考える。それと同じように、二つの出来事が同時に起こったとしても、実際は偶然でしかないのだ。これについて誰を責められるというのか? この真理が知られたとき、誤りは誤りとして受け入れられ、知識は明確な知識となる。実在は実在として、非実在非実在として、破壊されたものは破壊されたものとして、存在し続けるものは存在し続けるものとして、「あるがまま」に見られるのだ。
(ヨーガ・ヴァーシシュタ 213 より)

このカラスと椰子の木の喩えです。

この組み合わせでの喩えはいくつかの章に出てくるのですが、わたしはこの213章にある「これについて誰を責められるというのか?」もセットで好きです。

 

 わたしが検索した

  ↓

 Googleが検索結果を表示した

  ↓

 スピリチュアル情報が目に入る。おっ、と反応する

 上位に表示されているので、多くの人が見ている結果と思いたくなった

  ↓  

 その上位表示のロジックには、これまでのわたしの検索履歴が絡んでいる

  ↓  

 わたしの情報収拾・選択の傾向が原因(結局わたし!)

 

このわたしの思考のブーメランに対する示唆として、「これについて誰を責められるというのか?」がある。なんでもお見通しのヴァシシュタ仙。

わたしのなかにある脆弱性の存在は、スピリチュアルな情報をインターネット上にアップしている人のせいでもなければ、検索エンジンのせいでもないのです。

 

試しにシークレットウィンドウ(自分の検索履歴・ブラウザのCookieを反映しない)で検索してみたら、スピリチュアル色ゼロの、淡々とした検索結果が表示されました。

以上、直近のわたくしの脆弱性レポートでした!

 

みなさまも気を確かに、残り3ヶ月の2021年を乗り切ってまいりましょう♪