仕事中にラジオをつけていると月曜の15時に著者がニュースについて論じるコーナーがあって、興味深く聴いていました。
話題に登場する固有名詞から、自分と自分の親世代の中間くらいの人の意見だとわかる。「ここは昔の価値観を残したほうがいいと思っておられるのだな」とか、逆に「なんか急に若い世代にすり寄ってきている感じがする」と、そんなふうに時代の流れを確認するきっかけになっていました。
この本を読んだらラジオのお話と同じように世代差を感じつつ、わたしの知らない昔の東京が見えて、それが現在にもつながっている。そのことに正直ホッとしながら残念にも感じる、複雑な感情をいくつも刺激されました。
たとえば、こういうところに。
中学受験に至るまでの何年かの日々は、いま思い出すことさえ苦痛だ。親も親戚も、教師も、全員が狂っていた。オレ自身、いまだにあの時代の狂気の余韻の中で暮らしている気がする。
(月日は百代の過客にして より)
地方出身で関東に住んでいる同世代の人から、お子さんの中学受験にモヤモヤする気持ちを聞くことがあります。自分が中学受験を経験した人&そうでない人という夫婦の組合わせもあって、わたしの場合は地方出身者の気持ちを聞くことが多いのですが、この小説には東京で育った人の気持ちが書かれていました。
ほかにも、人生の中で訪れる特有の時期やトラブルに直面する ”あの感じ" が三つ、全体を通じて強く印象に残る形で繰り返し登場していました。
この本は人によって繰り返されていると思う要素が違うのだと思います。そういう意味で、意識に残っているものを掘り当てられる夢占いのような本でもあります。
わたしの場合は以下の題材に着目しました。
ギャングエイジとマッチョイズムのこと
わたしはこの本にある台東区が題材の小説「ギャングエイジ」を読んで初めてその言葉を知りました。この物語は、以下の書き出しで始まります。
児童心理学では小学4年生に当たる10歳前後の一時期を「ギャングエイジ」と呼んでいる。その名の通り、10歳の男児は、ギャング(徒党)を好む。そして、仲間とツルんでは秘密結社を組織し、ことあるごとに永遠の友情を誓い合っていたりする。つまり、この年頃の男の子は、結果として、当人の生涯のうちで最もマッチョな時間を過ごしているわけだ。
とはいえ、カラダはまだ子供だ。本当の勇気が身についているわけでもない。だから、この時期の子供は、時に、自分自身を窮地に追い込んでしまう。これからお話しするのは、私が、そんなマッチョな小学4年生だった頃の出来事だ。
ここから下町の話へ展開していく途中で90年代の秋葉原の思い出も挟まれつつ、またギャングエイジの話に戻っていきます。
冒頭に書いた通り、わたしはラジオで著者のお話しぶりを知っていて、著者は石原慎太郎氏のことが本当に嫌いなんだなぁと思っていました。ギャングエイジ的な徒党を組まずに高齢になっても突っ走っている小説家兼政治家に向ける感情は、わたしには想像ができないものです。
ギャングエイジの心理とジャイアン的存在への複雑な感情は、わたしは高齢になってもずっとあるものじゃないかと思っています。なので自分よりも少し年配の著者世代の男性が石原慎太郎的マッチョ・イズムに難色を示すのを見ると、そこ、もっと説明が欲しいと感じます。
もっと説明がないと、下の世代にすり寄ってきているようにしか見えなくて。
アルコール依存症者とその近くにいる人のこと
わたしがラジオで耳にした著者のお話しをその後も聴きたくなった理由に、アルコールへの言及があります。
なにかの時にさらっと「アル中の人は、家の中にあるドアを全部トイレのドアだと思ってるから」とおっしゃっていて。「それ!!!」と思ったことがありました。
少しずつ家の中に公衆便所の匂いのスポットが増えていく。布製の家具や服を捨てまくる展開になる。これは一緒に住む人にとって、あまり語られない大きなダメージ。なので、ラジオで耳にしたちょっとした発言に、嘘がないなと思いました。
ずっと「断酒中のアルコール依存者」という自己認識で生活されている著者にしか書けない言葉が、すごくいい。
「ゲロ掃除の手際が良くなったからって、それで事態が改善するわけじゃないぞ」
進次郎は、腹を立てているのではない。むしろ責任を感じている。あいつがあんなふうになったのは、もしかしたらオレのせいかもしれないと、時々そんなふうに考える。それが考え違いであることはわかっている。アルコール依存症患者の周辺で暮らす人間は、イラついたりうんざりしたり怒ったりすることに、じきに疲れてしまう。そして、感情を浪費することに疲弊した人間は、いつしか責任を感じるようになるものなのだ。
(カメの死 ── 練馬区 より)
あらためて振り返ってみるに、祥一は、片時も自分をパトロールすることをやめない人間だった。
(カメの死 ── 練馬区 より)
この半月ほど、彼はマトモな社会生活をこなせていない。オモテが明るい時間帯に目覚めていられないばかりか、周囲の人間を苛立たせずに眠っていることさえできない。言ってみれば、ひとつの生きた災害として部屋の片隅に転がっていた。
(棒読み ── 中央区 より)
著者は複数の小説の中で視点を点在させる形をとっています。
自分で自分をパトロールする人が脳内で起こる屈辱から逃れるために意識を消そうとするループ。自分で自分をパトロールする性質はその人のもので、一緒にいる人が責任を感じなくてもいいのだけど。論理としてはそうなんだけど。
これらのことを包含しつつ生きていくこと。セルフ・コントロールのこと
以下は、恫喝されると相手が女性であろうがを殴ることを止められない、基本的に口数が少ない人の気持ちの描写です。
おとなしく見えることと、自分を制御できないというのは別のことだ。オレにはわかっている。この世界は、自分をコントロールできる人間たちが、自分をコントロールできる人間たちのために設計施工した精密な建築物なのだ。
(地元 ── 江戸川区 より)
この前後に自分をコントロールできなくなる背景を説明するかのような心理描写があります。こういう感じは、これまでに読んだもので言えば「あがない」や「身分帳」の世界と似ていました。
一方で、手遅れになってから自分の気持ちに気づくのは弱い人間の当然の末路だと思っているかのようなところもあって、この両面を書くところが、ラジオでお話されていた著者の印象と重なります。
この世界は、自分の気持ちをはっきりと口に出せる人間が動かしている。世界は彼らのものだ。
(指輪 より)
この本には、はっきりと口に出してはいけない感情がたくさん書かれています。
最初の物語のなかに、重い一行があります。
生まれ直すことを決意した人間は、自分の過去と和解できなくなるということだ。
(残骸 ── 新宿区 より)
新宿の物語はチンピラの話。全く同じ経験はなくても、この感じは小さく繰り返していくもの。生きながらにして生まれ直そうとしながら過去と和解しようだなんて、よくよく考えると厚かましい。
他人と関わって生きていると、どっちかに振り切ってキャラ設定をしてしまえば楽かもしれないけれど、そうではないことばかりです。
おとなしい人が発酵させている思考が多く書かれていて、卑屈といえば卑屈なんだけど、生きながら生まれ直したことにして過去とも和解したフリをしている人には書けない文章です。
セルフ・コントロールと人情の両立はむずかしい。当たり前のしんどさが、短いドラマの連続のように読みやすく書かれていました。