うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

さよなら、男社会  尹雄大 著

ラジオで著者がお話をされているのを聞いて、なんだか聞き入ってしまう話だわと思って本を読みました。
読んでみたらラジオの柔らかな印象とは少し違っていて、そうじゃないとわかっていても、序盤はなんだか自分を責められているような気分になりました。「この価値観に適応するしかないと思って自分なりに工夫して渡り歩いてきたのに、適応したわたしがまずかったのか」という複雑な反応が起こりました。

 

序盤に【「女性は感情論で話す」のか?】という章があり、そこで心がキュッとなりました。
わたしは就職活動の頃から、女性の話は長くてまとまらないという認識が社会に広くあることを前提に、論理的に見えるコミュニケーションを心がけてきました。その設定を織り込み済で社会人になって、もう30年近く生きてきてしまった。なのでどうにも複雑なのです。


それでも著者ほどの怒りを持つことができないのは、わたしが男社会の一員ではないからでしょう。以下の指摘は本当にその通りだと思います。

暴力がもたらす陶酔と嫌悪の葛藤が生み出すエネルギーを男たちは力の発揮と間違って感覚していたのではないだろうか。錯誤ではあっても、そうした時代精神の作用で豊かさを目指した結果、幸か不幸か日本が経済大国となったのは間違いないだろう。
(3章 切断の恐怖と悲しみと痛み/「力感」は嘘をつく より)

この章を読みながら、何度か林芙美子の小説『浮雲』に出てくる登場人物を思い出しました。それぞれが戦争中に経験した海外での葛藤を日本に持ち帰り、そのねじれ混んだエネルギーを取り回せないまま破滅していく。あの小説に出てくる人たちの不気味さと令和の時代の現在が、この本の3章を読むと、つながってしまう。
妙にしっくりいくだけに、いや〜な紐解きでした。

 


著者が第5章の「偽装された弱さ」の最後で語る、男社会にさよならする方法を考えるときに ”ねじれ、病み、跛行(はこう)” は避けられないだろうというのは、実際そうだろうと思います。

トラウマを引き継いでいく ”家族” に意味があるのかと本の前半で少し強めに語られているときは、ちょっと苦手な論調かも・・・と思っていたのだけど、この本はそうではない方向へ話が進んでいきます。

 知るべきは、トラウマや葛藤は解決や克服の対象ではないことだ。
 (第5章 男性性と女性性「偽装された弱さ」より)

この本では男社会でのそれについて書かれていたけれど、女性にも女社会のトラウマや葛藤があるとして、それを解決や克服の対象としたところで、人生は別の時間軸で動いているんですよね。


この本は概ね男性向けに書かれていますが、第5章の以下の部分はわたしも深くうなずく内容です。

 あなたの中には、いまのあなたを作り上げている男性性とそれが想定する女性性がある。蔑視とは、あなたの男性性があなたの中の女性性を殴りつけている様をいう。抑圧も暴力も愛とは程遠い。あなたは自身の男性性も愛していなければ、女性性も愛していないだろう。
(第5章 男性性と女性性「男性性を獲得する経緯と物語」より)

わたしは自分のこれまでの「女性性を獲得する経緯と物語」をおもしろく感じていなかったことに気づいたときに、上記と同じことを考えました。
必要だったり好きでやっている作業を「女子力」と言われて楽しくなくなる、そういう思いをした女性ってけっこう多いんじゃないかな。

 

格闘技の経験について語られている場面では、この本を読んだときのことを思い出しました。


わたしが運動強度の高いヨガを好むのは、自分のなかの性質としての男性性(こだわりやしつこさ)を中和することができるから(参考)だと気づいたのはいつだったかもう忘れてしまったけれど、それを男性側からの視点で読んだ時の新鮮さがどちらの本にもありました。

 

わたしはここ数年で高まっているフェミニズムの論調を、日常の感覚としては、その文字列を見たり耳に入れるのがしんどいと感じています。
そのモードを差し込む心のスペースを持たずに暮らした年数が長すぎるのか、ただのキャパ・オーバーなのか、共通の敵を設定して連帯することへの失望なのか、自分でもよくわかりません。


普段あまり性役割を考えずにいられているのは鈍感なのか、周囲のおかげなのか、自分で自分に脳内麻薬を出せているだけなのか。それすらも、ほんとうに ”わからない” んですよね……。
わたしはすでに自己完結型ジャンキーなのか。そんなことを思いながら読みました。