アジア旅行中に旅先で知り合った友人が、この物語を読んで悶絶した気持ちをブログにアップしていました。あまりに苦しそうだったので痛み分けの気分でわたしも再読しました。
友人は "恥ずかしい" と何度も思ったようで、わたしはその感想を読みながら、目の前でスネをぶつけて猛烈に痛がっている人に「い、い、痛いよね。そこ痛いとこ・・・、わかる……」としか言えない、そんなもどかしさを抱えました。
わたしは "恥ずかしい" という感情に向き合う練習が長期的に見て人間を穏やかにすることをすでに思い知らされているので、同世代の親しい人が痛んでいると、ちょっと便乗したくなります(不謹慎でごめんなさい)。
油断した頃に同じ手口のスリに遭う、そして二度目のほうが大きく凹む。だから直近でスリに遭った被害情報は自分ごとのように聞いておきたい。
わたしはあらゆる経験について「あなたまだその段階にいるの?」という視点でものを語る人を信用しません。
子どもの頃は "恥ずかしい" も "痛い" に乗っけて大声で泣いてしまえば、やさしい人が「痛いの痛いの、とんでけーっ!」と慰めてくれたけど、大人になるとそうはいかない。穴があったら入りたくてもその穴を掘る場所探しからスコップの調達まで、自分でやらなければいけません。穴を掘るには何か申請までしなきゃいけないかもしれない。コメリにスコップを買いに行くのはそのあと。
だから、仲間がいたら一緒に擬似トレーニングするのが一石二鳥。「あなたまだその段階にいるの?」という視点でものを語る人は、そもそも仲間じゃないのです。
さて。そんな長い前置きはこのくらいにして。
友人が抜き出した言葉に注目して読んでみると、主人公とその旅仲間が他人を評する時に放つ「可哀想」というフレーズが気になったようでした。それは義務を抱えている人への負け惜しみのように発せられる「可哀想」という言葉。
この小説を読んでいると、「可哀想」と「感謝」が同義語に見えてくるから不思議です。感謝できることが可哀想。むしろ、ありがとう。
今回再読して気がついたのですが、この小説は文体で詰めてくる感じが絶妙です。ミュージシャンが使う用語を日常に持ち込む一般人の、あの嫌な感じを巧みに再現している。
90年代にメディアの仕事をしているわけでもない人が「ギョーカイ用語」を使う時に感じた、あの嫌悪感。「言ってそう」「思ってそう」「やってそう」が独特のリズムで怒涛のように続き、共通頻出語に帰属する弱さをこれでもかと並べていく。
このリズムに呑まれると、よくよく考えたら自分は同じことをしていなくても「あなただって、やってたんじゃないの?」と詰められている感覚になります。まるで警察の事情聴取で冤罪を認めてしまう無実の庶民。
グレーのスチール製の机や椅子とブラインドがある狭い部屋でスーツ姿や紺色の制服の人に囲まれて、慣れない時間を長く過ごしたあとに「カツ丼食うか」と言われそうな感じ。経験はないけれど、ああいう感じ。
そう思うと少し冷静になれます。
大丈夫。それ冤罪だから。
今回は痛がっている友人に、あらためてそう声をかけたくなりました。
毎日働いて頼まれごとにも応じて社会の中で役割を果たしているあなたが、なんでそんな気持ちにならなきゃいけないの。
こういうのを「原罪」というのかな。生きていてごめんなさい、存在してごめんなさい。そういう気持ちのスイッチをいつの間にか押されているような。
わたしは厚かましい人になりたくないという見栄が強いから、この気持ちの制御やねじれに興味があります。
- 作者:本谷 有希子
- 発売日: 2020/10/15
- メディア: 文庫
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