うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

わたしヨガとか教えてるけどインド行きたくないのよね

先日、わたしが平日仕事の後に通っているヨガスタジオで、練習の前にこんな会話がありました。

もし旅行へ行けるなら次はどこへ行きたいか、という雑談をしていました。

 

 

インストラクターさんから「どこへ行きたいですか?」と訊かれたので「インドかな」とお答えしたら、

 

 

 

  「わたしヨガとか教えてるけどインド行きたくないのよね」

 

 

 

とおっしゃって

 

 

 

  「わかります。わかりますよ!」(←キッパリ返すわたし)

 

 

 

という展開に(笑)。

その後におっしゃった「あの圧が無理」というつぶやきにも「わかります。わかりますよ!」とお答えしました。

 

 

 

これは本や映画の感想でもそうなのですが、このブログにわたしが書くことについて、

 

 

 

  そのことを書いている=そのことが好き・勧めたい 

 

 

 

と思われることがあります。

何年か前に何冊か三島由紀夫の本の感想をアップしていたら、友人から、わたしが三島由紀夫が好き(尊敬に近い意味で)なのだと思われていて、「え、好きじゃないよ。むしろ・・・」と話したことがありました。

作家のキャラクターや生き方について感想を書かないだけで、好きじゃない作家の本も、その人の考えかたを知りたくて集中・連続して読むことがあります。

2割3割あるいは6割以上、気持ち的には好きじゃなくても、これはいま自分が関わるコンテンツとしてタイミングが来ている、いまがいちばん理解しやすい気がする、という理由で読むことがけっこうあります。

 

 

 

インドもそうで、インドというキャラクター(?)を好かない気持ちも、インド贔屓の人に対してムムムと思う人の気持ちもわかります。わかる。めっちゃわかるの。

このように「自分がそれをする」のと、「他者にとってはどうなのか」って、意識としてはいくつものパターンが共存しているもの。両方の感情を処理しているものです。

好きとか親しみの感情って、コンディション次第のところが大きいのでね。(これを「ご縁」と言ったりする人もいますね)

もともと好きじゃなかった食材を、年齢や体調・料理方法との掛け合わせで旨味を感じた、というのと似ています。

 

 

 *   *   *

 

 

少し前に、日本は東南アジアの人から見て「観光には行きたいけれど働きたくない場所」と認識されていると、なにかの本で読みました。ラジオで聞いたのかな。ソース不明でごめんなさい。

これも、納得じゃないですか? 

コミュニケーションがオープンでゆったりとした国から来たら、「あの圧が無理」(=自分で状況を読んで察しなさいよという文化が無理)ってなるだろうと思うから。

いっけん淡白な感じなのに暗黙のルールのようなものがあって、それがまるでインフラのように秩序として回っているって、慣れないと圧に感じるだろうなと思うんです。

 

 

 *   *   *

 

 

ヨガをしている人同士でこういう感覚について話せるのって、いいですよね。

これこれこういう流れで・・・ってところが、わたしはその人の個性・経験の昇華のしかただと思っているので、こういう会話がその人を知るきっかけになります。

中年にもなると、みんながそれぞれ経験・背景を持って長く歩いているので、「あなたはそーゆー人なのね」よりも、「あなたはそういう考えを持つきっかけがあって、いまはそう思うのね」という小さな理解を重ねていく関係性のほうが、心の肥やしになります。

 

 

わたしはヨガをすることについて、古代のルーツと太く紐づけることを是とするようなハードルの上げかたをすると、その行く末は明らかにしんどいだろうと思ってます。

聖性をキャラ化してカルト教団の教祖みたいになるか、なにも喋るまいとリスク回避を決め込んで脳が固まるか、ひっそりごっつくアンチ資本主義的になるか、どれかに偏りそうで。

 

なのでわたしは日常では当たり前に、冒頭に書いたような感じで話します。