うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

マハラジャの葬列 アビール・ムカジー著 / 田村義進(翻訳)

ゴールデン・ウィーク中にどっぷり読みふけっていました。シリーズ第一作目で即ファンになった作家の推理小説です。

事件はガンディーやタゴールが活躍した時代のインド・カルカッタが舞台で、この物語の設定は1920年6月。今回は序盤からサンバルプル王宮に舞台が移り、宗教色がぐぐっと増しています。

このシリーズは全ての人がなんだか気になる人物設定で、なぜこういう考えや行動動機が起こるのかを紐解いていく流れの中に、インドの人が古くから大切にしている考えや立場、服従しつつも失われなかった誇りや心の経緯が読者の中に自然に入ってくる。

主人公の警部がイギリス人で部下の敏腕がインド人という組み合わせも最高におもしろく、裏社会に通じる記述も興味をそそります。

わたしは一作目の『カルカッタの殺人』で初めてその世界を知りました。今回も序盤でちょこっと書かれていました。

 カルカッタのチャイナタウンは白人居住区の南のタングラ地区にある。そこには路地や未舗装の道が網の目のように走り、みすぼらしい民家や安宿、それに高い塀と忍びかえしがついた金属のゲートに囲まれた古い工場が並んでいる。日中に見るべきものは何もない。ありふれた薄汚い裏町で、他の非白人居住区と区別できるのは、ほとんどの看板が中国語で書かれていることぐらいしかない。だが、夜になると、潜り酒場や屋台や賭博場や阿片窟が店をあけ、急に活気づく。そこには、数百万の人口を擁する灼熱の大都市の暮らしを潤すすべてのものがある。
(第5章より)

いまは中華料理屋が並ぶエリアになっているそうです。行ってみたいな。


舞台が宮殿に移ってからは、細かいところが勉強になります。

バニヤン宮> の玄関口には、採石場から彫りだされたもののように見える髭面の衛兵ふたりが立っていた。おそらくラジャスタンの砂漠のどこかの出身だろう。彼らラジプート族には、ヨーロッパにおけるスイスのように、インド中の王室に衛兵を提供してきた歴史がある。
 扉の向こうの廊下では、別種の男たちが警護の任についていた。<バニヤン宮> に入ることを許されている男は、マハラジャとその息子たちを除けば、宦官だけだ。
 アローラ大佐の説明によると、昔は、戦争で捕まって奴隷になった者や犯罪者が去勢させられていた。昨今の宦官の成り手については、もっと哀れを誘うものがある。たいていは貧困家庭の子供たちで、家人によって性器を切断されることもあるという。宦官にはそれだけの価値がある。実際のところ、性欲を無理やり抑えなければならない男たちでは、王家の後宮を守る役割を担いきれない。
(第30章より)

宦官=中国と思っていたけれど、インドや中東でもあったんですね。

 

ミステリーなので内容に触れた感想を書くことができないのですが、今回は主人公が捜査中に出会う人物との会話にぐっと引き込まれました。

以下のようなやりとりを読んでいると、意味がわからないと返答する警部がバガヴァッド・ギーターのアルジュナに見えてきます。

 「あそこに大きな岩がありますね。いまから千年後、川の水はあの岩を砂粒ほどの小さな石に変えているはずです。信じられないかもしれませんが、そうなるのは間違いありません。目で見ることはできませんが、それが真実だということはわかります」
「どういう意味かわかりかねます」
「真実と結果は別物です。貴人がかならずしも賢者でないのと同様、真実はかならずしも正義ではありません。あなたの魂は真実を求めています。その先に正義があるとすれば、それはけっこうなことです。でも、そうでなかったとしても、それはそれでなんの問題もありません。いずれにしても、正義にはさまざまなかたちがあります。見ても、気がつかないときさえあるくらいです」
(第39章より)

こんな調子で、進む捜査も進まない(笑)。この感じがおもしろい。

 

この少し前の同じふたりの会話は、こんな具合です。

「インドの進行は多種多様で、共通点は多くありません。でも、魂はわたしたちの存在の本質だと信じていることは同じです」また少し間を置き、サリーの縁を整えてから続けた。「すべてのひとの魂は唯一無二で、その魂はそれぞれの感情によって動かされています。けれども、魂のなかには、もっと高邁な精神によって動かされているものもあり、その場合には、どんな結果が待ち受けていようと、それに抗うことはできません。あなたの魂を動かしているのは、サティヤンヴィシ、つまり真実を突きとめたいという思いです。(中略)あなたな真実を究明する衝動を抑えることができない。ジャガンナート神を乗せた山車のように、立ちどまることができないのです。あなたはここに来るしかなかった。やるべきことをやり残すことはどうしてもできなかった。だから、あなたは今朝ここに来たのです。真実を見つけるために」
 わたしは首を振った。なんとなくもてあそばれているような気がする。神秘主義は苦手だ。わけてもインドの神秘主義には閉口する。それだけ手がこんでいるのだ。頭では馬鹿げているとわかっていても、彼らの神色自若ぶりを見ていると、戯言にも三分の理があるのではないかと思えてくる。
(第39章より)

”神色自若ぶり” という日本語訳が、外国人から見たインド人の感想として妙にしっくりくる。普通なら「内密にしてください」訳しそうなところを「内緒にしてください」と訳すことでちょっとユルい人格が浮き立ったり、訳者もこの物語の世界をどっぷり楽しんでいるのがわかって、なんかよいのです。

 

この「神秘主義は苦手だ」という警部が少し後の章で語るモノローグもまた、いい。

それが気高さというものだろう。いかにもインド的だ。しかしながら、わたしはイギリス人であり、正義を伴わない真実にはいらだちを禁じえない。
(第44章より)

正義を伴わない真実にいらだつ。それな!
でもこの人は警部なので、警部としての義務を果たせばよいのです。ぐふふ。「真実」について話した人も、それを認める意味で言っているのがわかる。


多すぎる側室や、森に放した虎を狩るセレブのアクティビティなど、秀吉50人分くらいの濃さで展開する王族のあれこれも見どころです。ものすごく現実離れして見えるけど、そこはインド。豪華絢爛です。

これがもし映画化されたら、エンディングは1万人規模で踊りそう。

 

 

▼シリーズ一作目の感想はこちら