うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

本音で話すという感覚がわからない

先日、ちょっとした時間に、穏やかに満たされる数分の会話がありました。
それは「本音で話せている」というようなパンチはまったくない、静かなやりとりでした。
なごり惜しいけれども、それ以上同じ感じは続かないもの。


年々「本音で話せる」という感覚がわからなくなっています。
本音って、キャラクターをわかりやすくするためにちょっと無理して作り出してない? と思うくらい、少し不自然なものと感じるようになりました。


現在のように、人権意識を育てようとする社会の流れにある日常では、普段話さないでいる「仮説」をひとりひとりが抱えています。それがすべて本音かというと、そんなことはないんですよね。
「本音」というと、ジーキル博士にとってのハイド氏のような悪に寄ったものを想定されがちで、ゴシップはそれを期待します。でもそれは、怒りや不満の感情がないときには醸成されないもの。


わたしが満たされた数分間の会話は、運動をして瞑想をして、心身がすっきりした後の会話でした。

そこで話したことは淡すぎて文章化しようのないものだったけれど、それぞれが仮説を持って生きていることのわかるもので、人間に生まれて同じ時間を生きて同じ言語を扱う、そういう出会いの喜びを深いところから感じるものでした。
怒りや同情を求める心の強い力がはたらかない、すっきりとしたあたたかさ。


こういう感覚を得るとき、ヨガと心理学を紐づけて語られるときの顕在意識・潜在意識の領域を感じます。
「生」の共感だけがあって、表層的な対応の共感はどうでもいい、そういう瞬間。「Pay attention to me.」の、 to me がない瞬間。

 

こういう瞬間が、いまのわたしの日々の精神を支えてくれているように思います。
こういう気持ちにいたるコミュニケーションは、効率的に理解しやすいように編集された "コンテンツ" では得られないものです。

表層的な分断の情報を摂取して深部まで侵されることがないように気をつけていると、時々こんなふうにご褒美のような瞬間があります。