うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

秘密のシンメトリー ― ユング・シュピールライン・フロイト アルド・カロテヌート著 入江良平、小川捷之、村本詔司(翻訳)

この本は1977年にジュネーヴでザビーナ・シュピールラインの日記と手紙が発見されたことによって新事実が知られ、彼女に対する研究が発表され問題作とされた本の日本語訳版です。
内容は以下が含まれていて、盛りだくさんです。

  • ザビーナの日記
  • ザビーナ→ユングへの手紙
  • ザビーナ→フロイトへの手紙
  • フロイト→ザビーナへの手紙
  • 発見者のカロテヌートによって書かれたザビーナ・シュピールラインを中心においた人間関係史のような人物伝「秘密のシンメトリー」
  • ザビーナの論文「生成の原因としての破壊
  • ブルーノ・ベッテルハイムのコメント
  • 小川捷之(翻訳者)によるあとがき

ここにユング→ザビーナへの手紙が収録されていないのは、以下の経緯があるそうです。

もし、われわれに46通残っていると言われているユングが書いたシュピールライン宛の手紙を読むことが許されたら、この文書のもつ人間的、歴史的意義は、はるかに大きなものとなるだろう。しかし、実際には、フロイトシュピールラインに宛てた手紙を彼の相続人たちが公表することを許可したのに対し、ユングの相続人たちは許可しなかったのである。
(420ページ ベッテルハイムのコメント より)

ベッテルハイムは、カロテヌートがザビーナの相続人たちに対して公開許可を得るための努力を払っていないことを指摘しており、この本の内容がユング擁護に傾いていると考えているようです。
わたしはこの本を読みながら、ドイツ系のユングに対しユダヤ系のフロイトとザビーナは大変だったという理解を強くしていたので、ユングが擁護されているという印象は受けなかったのですが(擁護しなくてもそのひどさは十分伝わる)、このベッテルハイムという心理学者はユダヤオーストリア人。ここでバランスをとった構成になっているのでしょうか。
この本はユングにとってザビーナは患者であったのに肉体関係に及んだという点でスキャンダルの暴露本みたいになっていますが、わたしは前に伝記的小説の冒頭に書いた通りで、まあダメなんだろうけどそういうことってあるんじゃないのと思っています。ユングは他の患者にも同じことをしていたので、その種の制御が無理な人だったのだろうと理解しています。


この元ネタとなった文書と著者の立場についても、ベッテルハイムのコメントが解説としてとても分かりやすいです。

 ローマ大学でパーソナリティー理論を教えているユング精神分析医アルド・カロテヌートは1977年の末、全く偶然なことからある文書コレクションを手にすることになった。これらは、それまで誰のものとも知れず、長い間忘れ去られていたものであり、これまた全くの偶然から、かつてジュネーヴ心理学研究所の本部があった建物の地下室に保管されていた。この文書は、1920年代初頭ジュネーヴで活躍していた精神分析学者の草分け的存在の一人、ザビーナ・シュピールライン博士のものであった。彼女はそのジュネーヴの地で、あのピアジェも数ヵ月間にわたり分析している。おそらくこれらの文書は、1923年にシュピールラインが祖国ロシアに帰ることを決めた際、そこに残していったものであろう。
(417ページ ベッテルハイムのコメント 冒頭)

こんなことって、あるんだな…と思いながら読みました。この資料が見つからなければこの聡明な人物の存在が知られずにいたなんて。


ザビーナ本人の言葉を追っていると、明快かつ鋭くフロイトユングの考え方の共通点・違いが整理されていて驚きます。
あなたの考えは少々マッチョすぎはしませんかとユングにそれとなく伝えている手紙の内容で、この人賢いわ…という印象が一気に強まりました。(以下の文章の下線の箇所は、引用元本文では強調点が打たれています)

 あなたは、神経症において主に退行過程を見ます。フロイト主に発達障害を見ます。定義をきわめて一般的にとれば、両者ともまったく正しいでしょう。あなたは、人生の課題が充足されていないと神経症つまり退行が起こる、と言います。フロイトは、発達障害があると人生の課題を見出せない、つまり十分に昇華することができない、と言います。このどこに矛盾があるでしょうか? またフロイトはこうも主張しています ── 個人が健康で働くことができるか、それもいわば幼児的なものに押し戻されるかどうかは、大幅に状況に左右される、と。
 最近のあなたの関心はもっぱら、個人の「定め(ペシユテイムング)」にあります。この「定め」は下意識的な象徴(あなたはこれを「意味論的記号」と呼んでいますが、それはどういう意味ですか?)によって表現されます。フロイトはそれに関心を払いません。なぜなら彼は、患者が病気の原因である本能の固着を解明し、それに意識的加工を施すだけで十分だと信じているからです。それだけで十分に健康的な反応を呼び起こし、患者が自覚的にみずからの人生課題を見出すことができるというわけです。ですからフロイトにとって、下意識の象徴は衝動的願望(Triebwunsche)の偽装としての価値しかありません。フロイトはむしろ、患者自身が病気の原因である幼児性を可能なかぎり意識的に加工することによって、適応を実現させようとします。これに対し、あなたは、患者が下意識の流儀を知り、それに馴染まなければならないと言います。つまり患者は、われわれのもっとも高貴な衝動がどのように象徴を利用するのか、そしてそれらの衝動が病的要素をどのようにして高尚な人生目的に適応した形に変えようとするかを見なければならないわけです。
(140ページ シュピールラインのユングへの手紙 日付なし。おそらく1918年1月27日~28日に書かれたもの より)

ザビーナ本人の場合はフロイトの論理が当てはまったという経験と共通認識をユングが理解している前提で、このように淡々と整理する。

しかも、その少し前の手紙の末尾で、事前に本人のプライドを傷つけないような地ならしをしています。
このように。

 下意識は私たちに明確な定めをなんら示してくれず、ただ状況に応じて問題を解決したり、道を示したり、警告あるいは激励をする(等々)だけです。にもかかわらず、その組織的な観察は途方もなく大きな価値と興味があることです。

 まだ続きがありますよ!

 心からの挨拶をもって

               シュピールライン=シュフテル
(130ページ シュピールラインのユングへの手紙 1918年1月6日<1月16日> より)

この手紙の頃はもうフロイト傘下に居るザビーナが、「あなたの考えは自分には価値があるものと思っています」という意思を伝え、「途方もなく」という言葉の中に、今もあなたのことが好きで感謝もしているという思いが詰まっている。これはすごいやりとりです。平安時代貴族の不倫の和歌を解読しているような気持ちになります。

 

ザビーナ・シュピールラインという人はユングとの関係(スキャンダル)で多くの人に知られる存在となった人物だけど、この立ち回りはまるで戦国時代のデキる家臣のようであり、信長の草履を温める秀吉のよう。自身の中にある男性性(いまでいうと「野心」かな…)への内省を一緒に済ませているユングへの手紙に書かれている内容は、複雑な感情と主張が織り交ぜられていて読みごたえがあります。

 


そしてまだユングと関係している頃の日記には、こんなことが書かれています。

私にとって、試験はたんに必要悪にすぎない。私の考えはそのずっと向こうに進み、それから……この重苦しい「それから」が私を圧迫する。そうだ、私が到達したい第一の目標は、現在書いている論文が素晴らしいものになること、およびこの論文によって私が精神分析協会に加入を認められることだ。私にとってそれ以上に重要なのは、二番目の論文「死の本能について」である。それに関して大きな不安を感じていることを白状すべきだろう。私の友は七月に出る論文の中で、この思想に ── 私の優先権を述べた上で ── 言及するつもりだと言っていた。ところが彼はそれを一月にやろうとしている。彼はただ私が発展させた思想をそのまま借用するつもりなのではないのだろうか? これもやはり根拠のない猜疑心なのだろうか? そうであってほしい。

 

(中略)

 

ロシアには行きたくない! 私はこの日記をわざわざドイツ語で書いている。これを見ても、私がロシアからできるかぎり離れようとしていることは、はっきりしている。そうだ、私は自由でありたい! 私はどこへ行くのか? 私は何を始めるのだろう? すべては月並みな質問だ。さしあたりは ── 勉強あるのみ! 私はいま何を望むのか? 答えはいつも同じ。私の友が私に対して燃え上がるのを見たい。
(60~62ページ シュピールラインの日記 1910年11月26日 より)

もうだいぶ野心が具現化されていて、自分を開発したユングに対して「彼はただ私が発展させた思想をそのまま借用するつもりなのではないのだろうか?」という疑いの気持ちを抱き始めているのがわかります。ザビーナの恋のエネルギーの根っこは保護されるお嬢様願望ではなく讃えられる勇者の野心。この両面をのぞかせる日記はとてもおもしろく、試験でカンニングを計画していることが書かれていたり、古郷ロシアに戻ることなく一旗揚げたいという強い気持ちものぞかせています。西原理恵子さんの「上京ものがたり」と「女の子ものがたり」を掛け合わせたようなおもしろみがあります。

 

 ──と、ここまではザビーナ・シュピールラインが残した言葉から思うこと。

以下は、フロイトについて思うことです。

 

フロイトシュピールライン宛の手紙を読んで見えたこと

この本には、フロイトがザビーナを誤解していた(ユングにつきまとうヤバい患者だと思っていた)ことを詫びる手紙が収録されています。そこから一年半くらいの間にみるみる評価を改めていくのですが、その間にユングフロイトの決別があります。わたしはこの本に収録されているフロイトの手紙を読んで、ザビーナの心境に配慮した文面に感動しました。

 私の前に『国際精神分析誌』の清刷があり、そこにあなたの素晴らしい最新作への批評が掲載されています。われわれはあえて自由に批判しました。というのもチューリヒの連中が、はっきりと、それを要求したからです。腹を立てずに、寛容さをもって読んでください。
 あなたのゲルマンの英雄にたいする私の個人的関係は決定的に断たれました。彼のやり方はあまりに悪質でした。私があなたから最初のお手紙をいただいたとき以来、彼についての私の意見は大きく変わりました。ただ学問上の関係はこれからも維持されると思います。
(212ページ フロイトシュピールラインへの手紙 1913年1月20日 より)

内面の火で自分自身を焼き尽くすかわりに、あなたの人生の目的を緩めなさい。統制され導かれた情熱以上に強いものはありません。あなた自身が分裂しているかぎり、何ひとつ達成することができないでしょう。
(219ページ フロイトシュピールラインへの手紙 1914年6月12日 より)

 短い文面の中にぎゅっと配慮を詰め込んでくる。こんな手紙をもらったら、そりゃ師事しちゃうよ。

そして、外側から見たら心配でしかないロシア行き(ザビーナにとっては帰郷)について、フロイトがあたたかく応援していた様子も見えました。

 拝啓
 お手紙拝受。たしかにロシアに行くというあなたの考えは、ベルリンで試してみるという私の忠告よりもずっと賢明のように思います。モスクワに行けば、あなたはエルマコロのところで、ウルフとともに素晴らしい業績をあげられるでしょう。それに、あなたはとうとう祖国の大地に立つのです。今は私たちみんなにとって厳しい時代です。
 近いうちにあなたからお便りをいただけるものと期待しています。ただぜひともお願いしたいのですが、便箋にもあなたの住所を書いてください。そうしてくださるご婦人はほとんどいません。
 心からの挨拶をもって

226ページ フロイトシュピールラインへの手紙 1923年2月9日 より)

 「今は私たちみんなにとって厳しい時代です」というのは、迫害が加速する未来予測があったのかもしれません。

 

 

伝記的記述「秘密のシンメトリー」を読んで見えたこと

この本を読むと、以前読んだ小説「ザビーナ―ユングとフロイトの運命を変えた女」ではわからなかった情報ソースの偏りの背景や、知財面での駆け引きの様子がわかります。

ザビーナは1905年4月28日にチューリヒ大学の医学部に入学しており、1911年5月には、ユングに手伝ってもらって書き上げた論文「分裂病の一症例の心理学的内容」によって学位を取得し、卒業した。この論文は1911年に『精神分析学・精神病理学年報』に掲載された。ユングは後に『リビドーの変容と象徴』において(1911~1922年版でも1952年の改訂版でも)この論文から多数の引用をしている。
 シュピールラインは、明らかにユングの勧めで、またひょっとしたらブロイラーの勧めもあって、パラノイアの知的な女性患者が彼女に提供した材料を詳細に検討する作業に取り組んでいた。この患者の話すことはまったく脈絡がないようにみえたが、シュピールラインの鋭い観察眼は、言語連鎖検査やその他の心の産物を手がかりに、ごく短期間のうちに、うわべはなんの意味もないようにみえるその患者の言葉を解読し、意味を理解することに成功した。そのあとではじめてシュピールラインは病院のカルテを見、患者の用いた言葉の意味に関する自分の結論について確証をえた。この症例研究において、患者の思考メカニズムと神話形成の底にある思考パターンとの類似関係を証明するためにシュピールラインが用いた方法には、明確なユング的特徴をみてとることができる。
 ユングがきわめて高く評価したこのシュピールラインの論文は、その後、この主題についての専門文献の中から姿を消した。おそらく、引き続いて起こったユング追放の犠牲になったのであろう。
(248ページ 秘密のシンメトリー 第二章 ある少女の世界 より)

 ザビーナはユングの治療を受けており、ユングと彼女は互いに好意を抱いていた。その後、状況が危機的になったとき、ザビーナはフロイトに助言を求めた。さてエンマ・ユングもまたユングの分析を受けており、彼女と夫の間には明らかに感情的なつながりがあった。あるときエンマは夫に内緒でフロイトに手紙を書き、悩み事を相談する必要を感じた。この短期間の文通は秘密にされるはずだったが、ほどなくユングに見つけられてしまった。エンマはそのことをフロイトに知らせた。「ともあれ、主人は今では私たちが文通していることを知っています。私は彼に宛てたあなたの手紙を見つけて驚いていました。しかし私はそれらの内容については、ほんのわずかしか教えておりません」
 この二つのエピソードの間には、いくつかの類似がある。ユングはまたもや裏切られ、その共犯者はフロイトだった。同一の構造をもつ(患者の側の裏切り)これら二つの挿話が、裏切られた者と裏切りの共犯者になった者との関係になんの影響も与えなかったなどと、想像できるだろうか。そこにどれほどの攻撃性が蓄積され、爆発する機会を待ちかまえていたか ── 明らかに、ユング自身にはそれがあまりよく分かってはいなかったのだが。
(308ページ 秘密のシンメトリー 第五章 裏切り より)

 ユングの鈍感力もすごいけれど、エンマの行動の根拠もいつか追ってみたいな…。

 

いまひとつその根拠が理解しきれなかったロシアへの帰郷ついても、この解説を読んだらなるほどという気持ちになりました。

当時、ロシアのインテリゲンチャは勉学のためにヨーロッパに行ったものだし、チューリヒはとくに好まれた留学先であったことも忘れてはならない。こういったインテリたちの多くは、帰国すると、外国で学んできた新しい思想のスポークスマンとなった。とくに医師たちにはその傾向が強かった。ウルフが先駆者としてあげている著者たちの中には、モスクワ大学院院長のオシポフがいる。彼はチューリヒで医学を修めており、さまざまな機会を捉えてモスクワにフロイト思想とチューリヒ学派の思想を紹介した。1908年、彼はとくにユングの業績を扱った論文「コンプレックスの心理学とチューリヒの病院における連想実験」を書いている。
(336ページ 秘密のシンメトリー 第八章 帰還 より)

 すでに述べたように、スターリン主義が絶頂にあった1936年に、精神分析は非合法化され、当然、これに関連したすべての活動も同じ運命をたどった。いずれにせよザビーナ・シュピールラインは、ロストフ=ナ=ドヌに戻ってからずっと地元の大学で教えていた。この大学は不運なことに戦争でその一部が破壊された。そのため、現在までのところ、大学の記録によって彼女の足跡を辿ろうとする試みはすべて不成功に終っている。
(351ページ 秘密のシンメトリー 第九章 終末 より)

どっちにいたほうがユダヤ人博士が迫害を受けずに学問を続けられるかな…と考えたときに、どっちに賭けても苦しいことは目に見えていたのかもしれません。

どうにも壮絶な時代です。