うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

スカートの下の劇場 ひとはどうしてパンティにこだわるのか 上野千鶴子 著

生活スタイルが変わると下着も変わる。この夏に「でかパン」デビューをしたこともあって、下着の歴史をもとに人々の意識を考察していくこの本を読みました。
序盤で家屋の仕様と排泄場所と下着の関係性が整理され、後半は文化とマインドセットを紐解いていく展開。とくに前半の部分に驚くことがいくつかありました。昭和7年はまだ下着を穿く習慣が根付いておらず、火災時に公衆の前で梯子を下りることを拒否したデパート白木屋の女性従業員が死んでいったという話などは、今では思いつかない状況です。昔の小説を読んでも、意外とパンツの話は出てこないもの。……というか、穿いてなかったんかーい! ということを知りました。昭和って最近じゃない?

 

アジアの中でも寒い中国の股割ズボンには合理性があると述べ、そこからトイレトレーニングの話に移り、ヨーロッパ的な抑圧はまた別にあるという説明がされる部分も、なるほどと思うことがありました。

股割ズボンですと、トイレット・トレーニングを長い時間かけてやってもいいのです。ヨーロッパ社会でトイレット・トレーニングがあれほど厳しいのは、寒いところで家屋に順応するためには、早い時期にトイレのしつけができていないと困るというハードの側での都合があるからでしょう。フロイディズムは、トイレット・トレーニングについて強迫的な考え方を持っていますが、それもヨーロッパ的な抑圧の一種でしょう。
(下着進化論 ドロワーズの歴史 より)

ちょうどこの本と同時進行で、ザビーナ・シュピールライン*1について書かれた本を読んでいました。彼女の幼少期の話に出てくる、排泄行為に似た挙動を大人が訝しんだり本人が意識する状況を読むと、うんちをウンチングスタイルでツンツンするアラレちゃんを見て育ったわたしとしては「なんでそこをそんなにタブー視するのだろう。大げさでは…」という疑問がありました。なのでそこは軽く流して、彼女(ザビーナ)がお嬢様だから「はしたない」という概念の範囲が広かったのだろうと解釈していたのですが、そもそも環境面で読み手のわたしに想像がつかないこともある。この本がそのあたりの理解を助けてくれました。

 


「性器観の地域差と文化差」のトピックも興味深く読み、以下の結論に思い当たることがありました。

女性に対する性的なコントロールの強い社会ほど、逆説的には、女性の性欲を最初から肯定しているということになります。
(性器を覆う絹のラップ 性器観の地域差と文化差 より)

インドの書物を読んでいると、ここに日本文化との大きな違いを感じます。ハタ・ヨーガの教典に書かれている世界は男性の修行社会で「いいからとにかく女には近づくな」くらいの勢いで女性は毒のような扱いです。そして男性のコントロールに完全に従う「従順な女性」となるとそれはヨーギニーだと急に聖化されりする。性表現に厳しい国なのに、なんでカーマ・スートラにはあんなに事細かなノウハウの記述があり、カジュラホのミトゥナ像がとんでもないことになっているのか。
昔は性に対してオープンだったというだけの話ではないインドの価値観を説明するのはなかなかむずかしいのだけど、それらのことまで抱き込む理解をこの本はストンと解説してくれる。トピックの構成がいい。

だって昔はオープンだったという文脈で話すなら、江戸時代の日本の春画世界はカジュラホの彫刻の何倍もの強度がある。根っこにあるのは欲の肯定のありかただという見かたは、かなり核心をついていると思います。

 


ひとつ、読みながら気になったことが「文庫版へのあとがき」の最後の最後で触れられていました。性と生を掘り下げる本はリアルな事件の予測や分析を兼ねてしまう、そういうところがあるみたい。
この本が刊行された年(1989年)に連続幼女誘拐殺人事件が起きており、この本では「換喩への固着、匿名への逃避がフェティシズムの本質」というトピックで扱われている内容が、その心理との関連性が高い部分と思います。このようなマインドについては先月読んだ「私の消滅」という小説にも描写がありました。

 

 

「スカートの下の劇場」では、女性の下着を集める人にとっての下着の持ち主のような存在に「匿名的な女」という表現が使われています。以下の部分は「フィードバックしない女」と置き換えて読むと、より納得しやすくなります。

 匿名的な女というのは、一般の中に溶かし込まれた女です。フェティストの心理メカニズムというのは一種の防衛ですから、自分のほうから働きかけることはできるけれども、相手から決してフィードバックがないという、一方的なピーピングとよく似たしくみです。ですからそれはロリコンとも似ています。男性性にとってはひとつの脆さの表われなのではないかと思います。そういう倒錯的な男性性にとっては、現実の女は自分に対してフィードバックしてきますから、それに対する恐怖がつきまとうのだと思います。
(鏡の国のナルシシズム 換喩への固着、匿名への逃避がフェティシズムの本質 より)

いまはフィードバックされることへの恐怖が性別を問わず容認されやすくなっているように思います。表面的にはマイルドな世界が広がっている。それは同時に耐性が弱まっていくことでもあって、自分はどうしたいだろうかということをわたしはよく考えます。
フィードバックされたくないけれど生きた心地はしたい、という要望を物質世界で満たすことがそもそも難しいという道理を、当たり前のことのはずなのにときどき忘れる。点検しないと自分も狂いかけていることがある。そんなふうに思うことがあります。


この本はたまたま通りかかった古本市で、写真資料に惹かれて買いました。読んでみたら下着の広告・ファッションフォトと併せて語られる本文とのバランスが巧みで、こういうラッピングのしかたでないと届かなかった層まで届く、ほどよく軽く見せる手法がちゃんとしている。こういう工夫って、だいじなことだよな…と思いながら読みました。

 

いまはこういう装丁のようですが

 

わたしが手にしたのはこういう装丁です。

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*1:もとはユングの患者で、のちにフロイトの弟子になった精神分析