うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

こころの声を聴く― 河合隼雄対話集

小説『深い河』、その後『深い河をさぐる』という対談本を読んでから、遠藤周作さんの語り口にすっかりハマっております。対談相手の価値観の根底にあるエピソードを引き出すのがおじょうず。
この本は「河合隼雄さん×誰か」の対話集のひとりとして遠藤周作さんが登場しています。ほかにも有名作家や医師、教育者、女優さんが登場しており、どの話も興味深い内容でした。

 

遠藤周作さんが大友宗麟(1530年〜1587年)の時代について話す以下の部分もそうですが、この本は日本語にある感覚・ない感覚の話がおもしろいです。

 私は当時の切支丹信徒の、特に農民、漁師の階級というのは、神父のパーソナリティーに惹かれて入信したと思うんです。というのは、「愛」という言葉の翻訳がないので、「御大切」という言葉を使っていますね。要するにみんな普段「御大切」にされるということがなかったんだろうと……。
(6 「王の挽歌」の底を流れるもの×遠藤周作 より)

大切という言葉に「御」をつけるのがしっくりいく感覚って、ほんとうに言葉にしにくいもの。その存在がないと感じることへの恐怖と畏怖と、あって当たり前のものに対する無意識の執着は、どうにも区別がつきにくい。


以下の部分では、遠藤周作さんの質問力と掘り下げかたが印象に残りました。プロのカウンセラーを相手にそれをしている。

河合:私の場合は、ユングの言ったことを出来るだけ正しく日本に伝えるというより、ユングが生きたような生き方を自分も日本でするという、そっちのほうを大きく考えています。ユングはなんといってもクリスチャンですからね、クリスチャンとしてユングが必死になってやったことは、これは追体験出来ないと思うんです。ユングのやったことを根本的に言うと、生きていく上において、自分の無意識から出てくるものを尊重し、クリスチャンとしての生き方と闘いながら自分の生き方を必死になってつくっていくわけでしょう。それと同じように、私も日本で、自分の無意識から出てくるものを尊重してどういうふうに生きていくかということです。ベーシックな方法論はユングを倣っていきますが。

遠藤:いまおっしゃったことを、ユング研究所のころにお気づきになりましたか、それとも帰国されてからお気づきになりましたか。

この質問に対して、河合隼雄さんは「はっきりと意識したのは(理論体系をぴちっとやる傾向の試験管と大喧嘩ののち)最後にユング研究所の免状をもらう時だった」と話されています。
「これは追体験出来ないと思う」という自己認識がある状態というのは、諦めと信頼が共存するバランスを得ているということで、そのタイミングを質問されています。絶妙な流れ。

 


どの対話もおもしろかったのですが、一人だけ往復書簡形式(手紙での対談)の方がいて、そこにあった生物学的性別・社会的性別の話も「それ!」と膝を打つ内容でした。

 ところで、「物語」(のちの「小説」も)が「読者」によって変化するのを身近に体験できるようになりました。「物語」は「女らしい」文化でしたが、その「研究」や「解読」は「学問」として男の領域に持っていかれました。それが近年になって変化してきているのを実感いたします。生物学的性別(セックス)と社会的性別(ジェンダー)、さらに性的行動(セクシュアリティー)の意図的な混同、混乱、ゴマカシによる「性」的抑圧にうんざりしてきた女性が、「物語」や「小説」の「男らしい」解読に異議をとなえだしたからです。
(8 「性別という神話について」富岡多恵子 / 河合隼雄 より)<往復書簡[2] 富岡多恵子河合隼雄

富岡多恵子さんの本はまだ読んだことがないのですが、中勘助に関する本を書かれているのをずっと前から知っていて、わたしはその本が気になりつつ、影響を受けたくなくて手を出さずにいました。でもこの本で往復書簡を読んだら、がぜん読みたくなりました。

 


「存在」についての河合隼雄さんのお話は、軽妙な調子でありながら相手が作家だからできる、そいういう掘り下げかたになっています。こんな調子で。

 井筒俊彦という先生が面白いことを言っておられる。われわれは、例えばコップが存在するというふうに言っているけれども、ほんとはそうじゃなくて存在がコップしているのが一番ぴったりくると言われるんですね。そういうふうに考える ━━ 私がここで存在が河合やってる、ここで存在が村上やってるというと、非常に近寄るものがある。そういう近寄った感じの線の中に出てくるものというのは、物語というより仕方がないものなんじゃないかと思います。
(9 現代の物語とは何か ×村上春樹 より)

この感じは浄土真宗大谷派の法語「今、いのちがあなたを生きている」(参考)に通じるものかと思うのですが、そこから、そのあとに「近寄った感じの線の中に出てくるもの」の話をされています。

 

わたしは「近寄った感じの線」の神的なものと悪魔的なものを感じ分けられるようになりたい(=世間とおかしな境界を作る沼にハマりたくない)と思うことがよくあるのですが、これはやはりとても精妙なものであるのだなと、あらためて思いました。