インドに居たときに、東京でヨガの指導者をしていた女性と仲良くなって、「わたしはエゴが強くて…」という話をされたときに「あるある、あるよ。わたしだってあるよそういうこと」と共感したときから、あらためて自分の中にある男性性のようなものに向き合う機会をさぐっていたのですが、それからひょんなきっかけでこの本に出会いました。2000年の本です。
ふだんは「知識と神を信じるインド」の方向で精神の話題にアプローチしているわたしですが、インド思想も学べば学ぶほどこの点(男性のプライド)に突き当たります。これは「愛と神を信じるアメリカ」のセラピーの実録本ですが、「瞑想かセラピーか」といったら、アメリカの状況を参考にすることの多い日本では、やっぱり心のお医者さんですよね。
でも、求める先はひとつです。
人間と自然、そして人間同士が相互につながっている事実を否定することは不可能だ。経済も天然資源も戦争や天災も、地球規模の発想をしなければ問題の解決をはかれなくなってきている。支配・被支配の関係から協調関係へ移行しないことには、人類の生存は望めないだろう。(P325)
幻想への指摘は、アメリカ的なストレートさがよい。
現実の人間関係には生々しい痛みがつきものであるという事実を認識すらしていないから、それに対処する方法を、社会は男性にも女性にも教えてこなかった。ロマンティックな夢物語に浸りきってきた男も女も、いざこざを回避することが夫婦の和であると思い込まされ、お互いの違いを積極的に交渉するスキルを身につけていないのが現状である。(P308)
7世紀のうちに、この問題と種族生存を見据えて組まれているイスラームはすごい。うらやましいくらい。宗教って、まさにここを担うもののように思います。
この本はアメリカ発だけど、よくある研究を重ねた結果だけの心理学本ではなく、ひとつの元素として心をとらえていく粒度がある点で、東洋的な要素も多いです。
問題提起⇒セラピー実例⇒心のシステム という構成で進む本ですが、順番をいれかえてストーリーを組みなおすことで、インドの科学的なアプローチの本に作り変えることができそう。
終盤に脳の働きへの言及がありましたが、
脳の記憶システム 二種類(P287)
- 顕在記憶(explict memory):記憶の再現や言語化、物語構成
- 潜在意識(implicit memory):習慣的反応、生理的反応、感情
「神と輪廻に棚上げしない」という方法だと確かにこうなるので、一般的に意識の話をしていくときは、やはりこのくらいから理解を共有していくものなのかな、と思いました。これはインド思想でいうsmritiと現世vasanaの要素があるけど、あれもこれも足りない感じがします。この本はフロイトの引用が多いのですが、こう考えてみると、ユングの分解はかなり東洋的です。
この本は、「男はつらいよ」のディテールをとことん彫りこんでいく内容ですが、セラピーの実録部分はこの本の中の表現にあるとおり「小型ドリルでコンクリートを掘りつづけるようなセラピー(P149)」で、「隠れたうつ病」を表面化させて解決に向かわせるという壮絶なプロセスの実例がバンバン出てきます。わたしは受ける勇気はないなぁ、と思うほど。
この本のわりとはじめの段階で、「B.C.4世紀のヒポクラテスが四体液の黒胆汁のバランスを見ていたのが、ギリシャ語でメランコリーにあたる」「アメリカの女性はやせることにとらわれ、男性は筋肉のかたまりになることにとりつかれている」という調査結果の記述が登場します。思い当たることばかりです。
外からもたらされる価値観は自分の中で培われるべき価値の代償にはならない(P54)。
インターネット上で「どう、外から見てもすてきなライフスタイルよね、わたし」という情報を発信する女性が増えていく現代社会では、もう男性に限って語られる問題ではありません。
この本に登場する研究結果の要約には、こうあります。
恥と誇大化が病的なナルシシズムにおいて果たす役割には以下のふたつの型があり
- 誇大化が意識の前面にあって恥は否認されている。
- 恥が意識の前面にあって誇大化は解離されている。
重要なのは、誇大化が自分を無価値であると感じることへの防衛機制だということ。
そして、
教室の隅でひっそりとふさぎ込んでいる女の子よりも、最前列で悪ふざけする騒々しい男の子のほうが重症。
というフォーカスで展開していきます。
わたしはこれまで、「親の教育によるトラウマ」といってしまうとなんでも行き場がなくなってしまうように思い、なのであくまで個人的なものとして精神の問題を掘り下げていく仏教的なアプローチを好んできたのですが、この本では親子関係の掘り下げバリエーションが何パターンも出てくるので、そうこうしているうちに自分と重ねあわせるスタンスが解きほぐされ、「まあ、それもあるよね」と感じるようになりました。
なぜここから逃げ腰だったかというと、周囲で子育てをしている友達からたまに悩みを聞くことがあって、なんというか、「親も子どもも承認されたいんだ。まずは親が満たされないとだめかも」というところに帰結してしまうから。でもこのセラピーは、驚くくらいえげつなく親と子が一緒にセラピーを行ないます。ときには立場を逆転させた会話をする。そこまでやると、すごい結果に行き着きます。
わたしはいつからか、「女性が引っ込んでまずは男性が元気にならないと、日本人の精神の健康は蘇生できないのではないかしら」という仮説を持っています。こんなことを書くと、これまでどれだけの女性が頑張って云々…という話になったりするのかもしれませんが、どうにも、そう思うのです。
この本には、
男性は "女が大切に思うことやしたがる事" に同調すると、自分の価値を下げられかねないと考える。(P135)
という場合のパターンも語られています。これは、男性同士の評価意識の中でよくあることだと思います。
これがマーケティングの話なら「マーケットを動かすのは女性だから」ということで、お金を媒介におとしどころを定めることができますが、家庭の問題ではその回避策も使えません。
仕事でかかわる男性の中でも、マーケティングやクレーム対応に携わる男性とはとても話しやすいと感じることが多いのですが、これも「仕事の話題である」という状況を通じて、その部分を少し棚上げできているからとても良好な関係で会話を続けることができているのだと思っています。
まあそうだけど、今はそうでもないかも。と思う内容もありました。
弱点を曝したときに人と人との絆は強まる、という知恵を女性は持ち合わせているが、不死身を演じきらなければならない男たちにはできない業である。言語学者のデボラ・タネンは、女性の会話が「共感的(rapport talk)」であるのに対して男性の会話は「報告的(report talk)」であると分析している。(P160)
ここは韻もリズミカルでうまいね! というところかもしれませんが、インターネットの中をのぞいてみると、発言小町のスレッド醸成なんかは王道で、同じノリの男性バージョンも少なくない。ここは救いがあるところなのかも。
とはいえ、評価となったら、男性はやっぱり男性に評価されたい。
伝統的な男の社会化とは、「尊敬され愛されるに足る男」であることを示して人とのつながりを得るために、まったく反対の、人とのつながりを断つ操作をして競争に勝たねばならない、という悲劇的な構造なのである。(P175)
これはひっくり返らないよね、とよく思います。女性に評価されることを喜ぶ男性も、かならずその奥に男性を見すえていると感じることはとても多い。
健全なスポーツマンシップと不健全な競争心の違いは、楽しんで飲む酒と苦痛から逃れるために飲む酒の違いに似ている。(P186)
ここも、いっけん「うまいこというなぁ」というところですが、よくよく考えるとスポーツマンシップそのものも健全と感じません。
「息子に憐れまれる父親」という章で語られる、近代精神医学の「投影同一化」の説明は、ラーマクリシュナの「だれかがよかれと思ってしてくれることは、実はその人がそうされたいということだ。タマシックで甘いものが好きな人はお菓子をくれるんだ」という話とよく似ていて、あらためてなるほど、と思いました。
この著者さんの主張の最重要ポイントは、プラクティカルな手法が解決の道であること。
(P273以降の内容から要約)
- 人間が成熟するということは、自分との関係をつくれるということ。
- そのために、自分に相応しい限界を設け、自分の感情をつかみとり、分かち合う技術を学ぶこと。
- トラウマを抱えていても、自分自身が自分の親になる練習を毎日積み重ねることで、自分を成熟させることができる。
このプロセスを、壮絶なセラピーの実例を涙しながら読むだけで、かなり心が液状化します。
現代社会の状況と重ねてみたり、インド思想の主張と重ねてみたり、頭の中のいろいろな部分を揺さぶられる内容ですが、ずっしりくるのは「セラピーの実録部分」。日本にもこういうのが必要だと思うけど、アメリカとはまた別の恥の概念を持つ国なので、方法はむずかしいだろうなと思います。
でもこのむずかしさを知ったうえで生きていくのとそうでないのとでは、だいぶん違う気がします。